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2006年10月18日

マッチポンプの典型!まさに狂学

「清浄の法水に断絶なし」と日寛上人
御相承とは甚深の法門の伝授


 『創価新報』(九月二十日・十月四日号)に、「破綻(はたん)、矛盾(むじゅん)だらけの日顕宗の相承=vと題する記事が載(の)った。見ると、その内容は、学会の近年の邪義そのものだが、何故か、「中島法信住職に聞く」との見出しを打って、脱落僧・中島某の談話であるかのように装っている(だが、体裁〈ていさい〉も文体も、まったく『新報』編集子の作、そのものだから笑える)。
 おそらく、お粗末な学会の相承♀マを、かつて正宗僧侶であった中島某が語ったという形にして、せめてもの権威付けを計ったのであろう。
 しかしながら、その内容は典型的なマッチポンプで、自分達の手でこれが日蓮正宗の相承観だ≠ニするものをデッチ上げておき、それをまた自分達が、口汚なく罵(ののし)り破折してみせる――という愚劣極まりないものである。
 これを放置すれば、邪義の横行を許すことになりかねないので、今回・次回の二回に分けて破折を加えておくことにした。


 創価学会のお粗末な相承♀マというのは、およそ次のようなものである(以下、『創価新報』の内容を要約して、列記する)。

これが学会の相承観だ!
子供騙しの愚論を見よ

「前法主はもぬけの殻で
血脈不断に備えられない!?」

 @相承を受ければ、法主には「大聖人の法魂」が宿る、という宗門の教義は大聖人の仏法とはかけ離れたものである。宗門が衣文としている、
 「手続(てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏・高祖已来(いらい)、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能(よ)く能く取り定めて信を取るべし」(化儀抄)
の文の通り、唯授一人の相承をすれば、大聖人の法魂は授(さず)けた隠居法主から現法主に移ることになる。つまり、隠居法主はもぬけの殻≠ナしかないはずだ。宗規には
 「退位した法主は前法主と称し、血脈の不断に備える」(第七条)
などとしているが、前法主の内証には法魂などないのだから、不断に備えることなどできない。

「当職・隠尊で三人なら
唯授三人となってしまう!?」

 A六十二世日恭上人の当時、隠尊は日隆上人(六十一世)、日亨上人(五十九世)の二人だった。では、大聖人の法魂は誰に宿(やど)っていたのか。三人に宿っていたとでも言うのだろうか。それでは、唯授一人ではなく唯授三人≠ノなってしまう。法魂というものは、いくつにでも分裂するものなのか。

「隠尊の再登座の際、
法魂は出入りする!?」

 B五十三世の日盛上人が退かれた際、もぬけの殻≠ナあるはずの日英上人(五十一世)が再び登座、その後、同じくもぬけの殻≠ナあるはずの日霑上人(五十二世)が再登座。
 ちなみに日霑上人は、都合三回も猊座についているが、そのたびに、宗祖の法魂が出たり入ったりしたというのか。

「大聖人の法魂が抜けて
御本尊書写できない!?」

 C後継に相承をして、大聖人の法魂が抜けてしまった隠尊は、御本尊を書写してはならないはずである。ところが宗門では、隠尊が御本尊を書写していた例がある。日興上人、日量上人(四十八世)、日荘上人(四十九世)等々。大聖人の法魂が止住(しじゅう)していないはずの人が、現実に書写していたわけである。これをどう説明するのか。

「相承すれば平僧に戻り
合掌礼する必要もない!?」

 D日如上人に相承したことにより、法魂が抜けてしまった日顕上人には、合掌礼をする必要は全くない。いわば、今の日顕上人は、登座前の「阿部信雄」の境涯に戻った、と理解すべきである。

 以上のごとき愚論を、延々二回にわたって述べたあげく、『新報』は、日蓮正宗の血脈相承を「陳腐(ちんぷ)で、欺瞞(ぎまん)に満ちたものである」として全面否定し、
 「ありもしない宗祖の内証なるものを、あると偽り、大勢の僧俗大衆を欺(あざむ)いてきたことは、詐欺(さぎ)である」
と結論付けているのである。

学会の愚論は前提が誤り
オカルトまがいの主張を破す

 しかしながら、この愚論の前提となっている、血脈相承によって法魂が移れば前御法主はもぬけの殻≠ノなるはず、との捉(とら)え方が、そもそも誤りである。
 何故ならば、血脈相承によって御法主から次期御法主へと授けられる「大聖人の法魂」とは、
 「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書六八五頁)
と仰せのように、大聖人が悟られた南無妙法蓮華経の極理であって、これを説き示された甚深の法門が、御歴代上人に伝えられているのである。
 その場合、師(御法主)が弟子(次期御法主)に法門を伝えられると同時に、師は法門を完全に忘失してしまう、などということがあろうか。このようなことが起きるとすれば、それはオカルトであって、現実にはまったくありえない。
 学会のいうもぬけの殻$烽ヘ、そういう、くだらない主張にすぎないのであって、子供騙(だま)しの戯論(けろん)である。
 おそらく学会では、本宗の血脈相承の在(あ)り様(よう)を喩(たと)えた「法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう=一器より一器に法水を瀉〈うつ〉す)」の語を見て、言葉尻を捉え、このような戯論を思いついたのであろう。つまり、喩えと現実の区別を無視し、とにかく誹謗(ひぼう)できさえすればよい、との、ひねくれ曲がった根性によって、考え出したものといえる。
 ちなみに、この法水瀉瓶ということについては、学会が正師と仰ぐ(ふりをしている)二十六世日寛上人も、
 「(日興上人は)法を日目に付し、日目亦(また)日道に付す、今に至るまで四百余年の間(あいだ)一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月(しんげつ)豈(あに)此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり」(六巻抄六五頁)
と仰せである。
 学会の主張でいけば、この日寛上人の御指南も「陳腐で、欺瞞に満ちたもの」ということになるはずだが、そんな思い切ったことを今の時点(学会が日寛上人書写の御本尊を利用している現段階)で言えるのか!?『新報』編集子よ、この点にしかと答えてみよ。呵々(かか)。

学会の愚論の一々を破す
その頭破七分ぶりは明らか

 さて、学会の相承♀マの根本的な誤りが明らかになったところで、先の@〜Dについて、それぞれ簡潔に破しておこう。
 @については、前述のとおり、御法門を授けられたからといって、前御法主がもぬけの殻≠ノなるなどということはないのだから、御隠尊として血脈の不断に備えられる、というのは当然の道理である。
 Aについては、数多の御弟子の中でも一人を選んで授けられることを、文字どおり唯授一人≠ニいうのであって、御当職と御隠尊を合わせて唯授三人だった時代がある、などという輩(やから)は頭がどうかしている。べつに、御弟子の中の三人に同時に御相承を授けられた、というわけではないのである。
 「法魂が分裂!?」などと心配する前に、自分の頭が七つに分裂していないかを心配する方が急務であろう。
 Bについては、御隠尊が、まさに血脈不断のために再登座あそばされた例だが、これも、一旦、御相承を受けられたならば、それ以後、御当職であられた時期も、また御隠尊となられた時期も、一貫して大聖人の血脈を護持されているのであり、何も「法魂が出たり入ったり」しているわけではない。
 こういう疑難を構えるあたりが、まったく血脈相承の片鱗(へんりん)もわかっていない証拠である。
 Cについては、後継に相承したから法魂が止住していないはず、などという発想が狂っており、それは前に述べたとおり。したがって、御隠尊は御本尊を書写してはならないはず、などというのも、『新報』編集子の狂える思い込みにすぎない。
 Dについては、御当職はもちろんのこと、血脈を持たれる御隠尊に対しても合掌礼をとるのは当然である。御相承をなさったことで、登座前の境涯に戻る、などという道理はもとよりないのである。
 以上、創価学会のお粗末な相承♀マにつき、破折を加えた次第である。 (以下次号)