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2006年11月06日
続・お粗末な学会の相承♀マを嗤う
恣意的に歪められた御歴代上人の御事跡
いかなる誹謗も血脈を貶めるには至らず
『創価新報』(九月二十日付・十月四日付)は、七人の御歴代上人を指してこんな法主にも「宗祖の魂」が宿るというのか≠ニ誹謗(ひぼう)している。
これらの上人に向けられた誹謗は、これまで、いずれかの形で破折されてきたものばかりであるので、本稿では、各上人への誹謗を示した後、要点を簡略に破折していく(※第六十七世日顕上人に対する誹謗もあるが、あまりにくだらぬ内容であるので捨て置く)。なお、過去の破折文についても、主だったものを示しておくので、詳細についてはそちらを参照されたい。
第十三世日院上人の御事
宗門の『富士年表』によれば、十二世の日鎮上人は十四歳、十三世の日院上人に至っては十歳で登座している。
十歳といえば、小学校四年生。そんな子どもにも、大聖人の法魂が宿っていたというのか。
結論から言えば「しかり」。
慣用句にも「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」とあるように、大成する人は、若年であっても、すでにその才気を漂(ただよ)わせているものである。
また、仏法でも「生智の妙悟」と説かれるように、若年で猊座に登られた方々は、しかるべき御命と因縁を持ってお生まれになり、若年期においても、将来の宗門を背負って立たれる才気に満ちた、まさに大聖人の法魂を継がれるにふさわしい方々であったに違いない。
現に、十二世日鎮上人は、日院上人に相承される約一年前に、後の日院上人を指して、
「良王殿(※後の日院上人)の事幼少の御方に御座候、然(しか)りと雖(いえど)も信心御志候て勢仁(成人か)致され候はゞ当時の世間仏法とも御渡し本末の僧俗ども仰ぎ申さるべく候、仍(よっ)て後日の為め件(くだん)の如し」(『富士宗学要集』八巻三五頁)
と、幼少ではあっても、信心の深い良王殿(日院上人)こそが、大石寺を背負っていくべき御方であることを、大石寺に有縁の人々や檀信徒に向け、宣せられているのである。
しかして、これを受けた当時の僧俗も、若年の日院上人をしっかりとお支えし、介添え申し上げ、本宗の唯授一人の血脈は絶えることなく護持されて、御当代・六十八世日如上人まで連綿と伝わってきているのである。その厳然たる事実の前には、『新報』編集子の邪難など、何の意味もなしておらない。
※若年御法主については、第41回全国教師講習会の砌の日顕上人御講義(『大日蓮』平成四年十月号所載)および『妙観』平成三年七月二十二日号、『大白法』平成十六年二月一日号を参照されたい。
第三十三世日元上人の御事
日元上人は、沼津の浅間神社≠ノ御本尊を下附している。謗法厳誡を貫いた日興上人の御精神に照らした時、まったく言語道断ではないか。
沼津に数ある浅間神社のうち、日元上人の御本尊が御安置されている浅間神社のある一帯は「東井出」といい、代々大石寺の総代を務める井出家に連なる人の所領であった。しかも、目と鼻の先には、日蓮正宗の古刹(こさつ)の一つである蓮興寺がある。
蓮興寺は、承応元年(一六五二年)六月八日、総本山第二十世・日典上人によって再興されているから、それ以前のことも考え合わせれば、再興から百年以上も下った日元上人の御代には、一帯全てが日蓮正宗に帰伏していた、といえよう。つまり、この時期、この一帯はすでに広宣流布されていた、と見てよいのである。
ところで日有上人は、『化儀抄』に、日興上人が重須に八幡の社(やしろ)を建立し、その中に御本尊を懸(か)けられた、と記されている。(『富士宗学要集』一巻一五七頁)
しかして日有上人は、その意義について、これは、広宣流布の暁には本門寺に八幡の社を建てるように、という手本の意味で建立されたものである、とされている。
つまり、広宣流布の時には、神社を建立し、その内に御本尊を祀(まつ)ることは謗法ではないばかりか(むろん他の神体などと一緒に祀るわけではなく、あくまでも御本尊のみ)、むしろ、それがあるべき姿である、ということである。
現に、かつて広宣流布がなされた大石寺周辺には、大石寺の歴代上人の御本尊が祀られた社が複数あり、その中には、日有上人に係わる社や、日寛上人の御本尊が祀られている社もあるのである。そして、かつて創価学会は、これらを「正しい祭祀(さいし)の伝統と誇りある先人の偉績(いせき)」と評していたのである。
したがって、日元上人が神社に御本尊を下附されていたからといって、それを誹謗される謂(い)われはない。また、もし、後世の大衆のうちの信心薄き者が、そこに謗法の神体などを持ち込むことがあったとしても、それが日元上人の失などでないことも、もちろんである。
それでも、神社に御本尊を下附したことが謗法だ≠ニするのであれば、日興上人も、日有上人・日寛上人も謗法を犯した、と誹謗することになり、さらには、それを讃えた創価学会をも誹謗することになるが、『新報』よ、天に唾(つば)するつもりか?
※神社への御本尊御安置については、『妙観』平成三年九月十五日号、『慧妙』平成五年五月一日号・平成十年三月十六日号・平成十二年十一月十六日号を参照されたい。
第五十三世日盛上人の御事
五十三世の日盛上人は慶応元年に起こった大石寺の火災の後、相承もせずに本山から失踪(しっそう)して、行方不明になってしまった。こんな無責任も、宗祖の法魂が宿った法主の振る舞いだというのか。
日盛上人の後継についての疑難であるが、日盛上人が御法主であった当時は、御隠尊として日霑上人・日英上人のお二人が控えていらっしゃった。
しかして、退座を御決意された日盛上人は、先々代たる日英上人に再登座を願い、これを諒(りょう)とせられた日英上人は、再登座の後、改めて日霑上人を次の御法主と定められた、ということであって、日盛上人の御振る舞いが無責任であったとは、為にする誹謗以外の何ものでもない。
また、日盛上人が失踪した、あるいは、日霑上人と日盛上人の間には終生にわたる確執(かくしつ)があった、などというのも、事実ではない(この件に関する論証には膨大〈ぼうだい〉な紙面を要するので、詳細については後述の資料を参照いただきたい)。
さらに、日盛上人が、無責任どころか、いかに責任感が強く、また有能かつ人望厚き方であられたかは、退座後、明治十三年十二月には長野県伊那市に信盛寺を、同十四年十月には静岡県静岡市に妙盛寺を建立、また同十九年三月には興門大学林の林長となられた後、同年七月に日蓮宗正統興門大石寺布教会を設立し、その会長に就任、さらに、同二十三年十一月には神奈川県横須賀において清水梁山と問答して論破す、というように、布教・折伏・問答に活躍された事実によって十二分に証明されよう。
※日霑上人・日盛上人の御事については、『慧妙』平成六年四月一日号・同六月十六日号・平成七年五月十六日号・同七月一日号・同七月十六日号・平成八年一月十六号・同三月一日号を参照されたい。
第五十八世日柱上人の御事
日柱上人は、大正十四年に、クーデターにより辞任させられた。宗祖の法魂が宿っているはずの「法主上人」に対し、そんな能力はないと不信任を突きつけて辞めさせたのである。こんなことが許されるのか。五十九世日亨上人への相承も、嫌々行なったものだ。
日柱上人の御退座に際し、上人の管長としての宗門再建方針に対する異議に端を発した、宗内を二分する争論があったことは事実である。
が、そもそもの争論自体は、宗門の将来を思えばこその真摯(しんし)なもので、また、過熱こそしたが宗規に則(のっと)っており、およそ「クーデター」と呼ぶような非合法なものでは、けっしてなかった。
しかして日柱上人は、争論の帰趨(きすう)を見据(みす)えた上で、最終的に自らの御判断で管長職を辞し、日亨上人に法を授(さず)けて御隠尊となられたのである。
なお、日柱上人と日亨上人の間には、信頼関係こそあれ、確執などなかった。それは、昭和二年十一月二十日、日亨上人が、宗内僧俗に対し、
「大正四年に日柱師を学頭に推挙(すいきょ)するの主動者となりてより同十二年に五十八世の猊座に上らるまで直接に間接に力(つと)めて障碍(しょうげ)なからしむるやうにした」
と述べられていることからも明らかである。日亨上人のお人柄からして、このお言葉に何らの虚飾がないことは、疑う余地のないところである。
※日柱上人の御事については、第41回全国教師講習会の砌の日顕上人御講義(『大日蓮』平成四年十月号所載)および、『慧妙』平成五年十月十五日号・平成六年二月十六日号・同六月十六日号、『大白法』平成十六年二月一日号・同三月一日号を参照されたい。
第六十一世日隆上人の御事
日隆上人は総監時代に、若い芸妓に入れ上げ、寺の財産を使い、その芸妓を落籍。妾狂いで背任≠ニ一般紙でも報じられた、いわく付きの人物だった。
なお、日隆上人は二年四ヶ月の在任中、一度も大石寺大坊には住まず、東京の常泉寺にいた。したがって、客殿での丑寅勤行も勤めず、宗門最重要行事の御大会すら二度とも欠席した。さらに、一幅の本尊も書写していない。これが、大聖人の法魂が宿った法主の振るまいか。
創価学会による、日顕上人へのスキャンダル攻撃を見れば判るように、人を貶(おとし)めるために、「金」と「女」のスキャンダルを作ってまで撒(ま)き散らす輩(やから)は、今も昔もいるものだ。
事件≠ェあったとされる昭和五年当時、日隆上人は、時の宗務総監として日開上人を補佐し、辣腕(らつわん)をふるっておられた。
また、当時の日蓮正宗を取り巻く状況として、京都・要法寺との確執があった。
すなわち、京都・要法寺との間で、仙台・佛眼寺の帰属を巡(めぐ)って争っていた裁判に、要法寺側勝訴の判決が下ったものの、佛眼寺檀信徒は強制明け渡しを拒否。日開上人が佛眼寺檀信徒に向けて激励の書を送るなど、要法寺との関係が非常に緊迫(きんぱく)していたのである。
となれば、事件を捏造(ねつぞう)してでも日隆上人を貶めて、失脚させようという動きがどこから起こったとしても、何の不思議もない。
さらに『新報』は、日隆上人の醜聞が一般紙にも載(の)った、として、『読売新聞』の記事を紹介しているが、これは、ある種のトリック以外の何ものでもない。
すなわち、『新報』が取り上げた記事は、「警察が日隆上人(※当時は総監)を取り調べ、その書類を検事局に送ることになった」というものであり、日隆上人が、不行跡によって罪に問われた≠ニいうのではない。
現在の刑事訴訟法に照らして考えても、何者かの訴えを受けて取り調べをした以上、警察は検事局に送検する義務が生じ、資料などを検事局に送る。そして、それを受けた検事局が、その資料に基づいて、実際に犯罪に該当する行為があったかどうかを判断するのである。
すなわち、警察が送検した、というだけでは、実際に違法行為が行なわれたのかどうかは断定できないのであるから、よほど明確な事実が判明していないかぎり、警察が検察に書類を送ったという新聞報道だけで大騒ぎする、というのは、「為にするもの」と断ずるしかない。
さて、『新報』は、あたかも日隆上人が、御登座以来一度も総本山に足を運ばれなかったかに書き殴(なぐっているが、これは大いなる欺瞞(ぎまん)である。
『富士年表』には、日隆上人が昭和十年六月十一日に大坊に入られたと記されており、翌・昭和十一年四月十四〜十五日には、御代替わり法要が奉修されたことが記されている。
また、御在位当時の『大日蓮』を調べると、日隆上人が、御霊宝虫払い大法会をはじめ、総本山で奉修された法要を執行されたことが記されている。
たしかに、療養ということで常泉寺に滞在されていることが多く、また御大会に関しては、御病気のために前御法主・日開上人が大導師を務められてはいる。
だからといって、日隆上人が御法主としての法務を怠(おこた)っておられたわけではないことは、『大日蓮』等を見れば明らかではないか。
にも拘(かか)わらず、あたかも日隆上人が責務を放棄されていたように書き殴る『新報』の悪らつさには、ほとほと呆(あき)れるしかない。
※日隆上人の御事については、『大白法』平成十六年二月一日号を参照されたい。
第六十二世日恭上人・第六十三世日満上人の御事
創価学会に神札受諾を迫った六十二世日恭上人は、昭和二十年六月十七日、大石寺の火災で焼死した。誰にも相承をしないままに亡くなったため、それから半年後に、日満上人に相承したのは六十一世日隆上人だった。その日満上人も、勝手に山内の由緒ある杉の木を伐採・売却し、私腹を肥やした挙げ句、若手僧侶から退陣を迫られ、昭和二十一年十二月に失脚している。
『新報』は、日恭上人の御遷化(せんげ)が、あたかも日恭上人に対しての仏罰であるかに論ずるが、それは全くお門(かど)違いの論難である。
そもそも当時の日本は、戦争最末期の断末魔の状況で、全ての国民が、いつ、どこで、どのような死に方をしてもおかしくない、という状況に置かれていた。日恭上人御自身も、まさに御遷化になる当日の朝、「いつ自分も倒れるかわからない。もしその時には相承のことが心配だが、その用意もしてある」「また、御隠尊も御二人健在でいらっしゃるから」と語られていたという。
そうした状況下、軍によって半ば強引に占拠された総本山において、軍関係者の失火(放火という説も)によって発生した火災により、日恭上人は御遷化されたのである。
だが、当時の状況をよく知る者は異口同音に、「日恭上人が、逃げ遅れて焼死されたとは考えられない」と言い、また、御遷化のお姿が、御宝蔵に向かい、端座(たんざ)合掌されたものであったことから、日恭上人は、ひとつの御決意を抱いて御遷化されたことが伺えるのである。
ちなみに、『人間革命』には、戸田城聖氏が「日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。ありがたいきわみではないか」との感想を持った、と書かれている。
なお、日隆上人から日満上人への御相承に何の問題もない理由は、先に日盛上人の御事について述べたものと同一であるから、ここでは省略する。
次に、日満上人の御事であるが、山内の杉の木を伐採・売却して私腹を肥やした、というのは、全くの言い掛かりである。
当時の日蓮正宗は、戦災等で疲弊(ひへい)の極にあったことから、日満上人は、戦時中に供出する予定となっていた杉の木を売却し、復興費用に充(あ)てようとされたのだが、宗内の意見調整が不十分であったため、そこから宗内に齟齬(そご)が生じてしまったのである。
日満上人の御退座の背景には、こうした混乱があったが、日柱上人と同じく、日満上人もまた、御自身の判断で退座されたことは、疑う余地がない。
退座後の日満上人が、御遷化までのわずか五年の間に、高知県に大乗寺と本因妙寺の二ヶ寺(現在は、両寺院とも正信会が占拠)を建立された事実が、それを雄弁に物語っているといえよう。
※日恭上人の御事については、『慧妙』平成五年七月一日号・同七月十六日号・同九月一日号・平成六年八月十六日号・同九月一日号・同十月十六日号・平成八年七月一日号・平成十四年九月十六日号を、また、日満上人の御事については、第41回全国教師講習会の砌の日顕上人御講義(『大日蓮』平成四年十月号所載)を参照されたい。
以上、『新報』の邪難を簡潔に破してきたが、いずれの邪難も、事実を恣意(しい)的に歪(ゆが)めた、悪質極まるものであった。
本紙は今後も、こうした邪難をことごとく摧破(さいは)していく所存である。