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2007年01月03日

連載 28回 宗創和解の最大の阻害要因

秩序回復を強く望まれた日達上人
だが池田は疎外感から院政強化

依然変わらぬ創価学会の体質
活動家僧侶の不満さらに募る

山ア この池田大作の面従腹背(めんじゅうふくはい)≠アそが、昭和五十二年以後の学会問題を、複雑かつ深刻化させた根本原因だったのです。
 活動家僧侶達は、いちおう日達上人の御指示に従って、「五月三日」以後、末寺での学会批判を差し控(ひか)えましたが、しかし、創価学会に対する不信感を隠そうとしなかったのも、現実に末寺で接する会員達から面従腹背≠フ実態を感じていたからです。
 また、学会幹部の中にも、執行部の欺瞞(ぎまん)性に対し不信感を募(つの)らせた人達が少なくなく、そうした人達が、末寺僧侶達に組織内の真実の姿を伝えたのです。
 そのことを、活動家僧侶達は、宗務支院長に報告し、宗務院に伝えました。
原島 学会首脳は、宗務院から、「活動家僧侶が学会はいっこうに変らないではないか∞池田院政ではないか≠ニ不満を持っているので、善処するように」と言われて、活動家僧侶に直接会い、ひたすら頭を下げて、
 「日達上人にお誓いしたとおり、これから組織に徹底していく。池田院政など絶対にしていない。自分達が責任を持ってやっている。悪い点があったら、地方協議会を通して指摘してください。必ず対処する。
 だから、御講などでの批判や檀徒作りを止めてください」
と申し入れました。しかし、活動家僧侶から、
 「五十二年路線で池田大作さん自身が打ち出したことに対して、具体的な反省と謝罪がなされていないから、趣旨が徹底しないのではないか。池田さん自身の言葉で、ハッキリと、『あの発言は誤りであった』と謝罪してもらいたい」
 「あなた達が、池田先生の敷(し)かれた路線を守っていく∞池田先生の御指導どおりやっていく≠ネどと言っているのは、院政の証拠ではないか。池田さんが院政を敷いていないというなら、あなた達が、池田時代のこうした指導は間違いであった≠ニ言えないはずがないでしょう」
と責められ、返答に窮(きゅう)する、ということが続きました。
山ア 創価学会は、宗務院から「『末端は変っていない』と活動家僧侶は見ている」と言われ、「それは誤解である」と答えたところ、「そうであるなら、学会の方でその旨(むね)を彼等に伝えて、納得させてもらいたい」と言われて、仕方なく活動家僧侶に申し入れに行ったのです。
 もっとも活動家僧侶達は、全体としては、直接的な学会批判を中止し、日達上人の言われたように様子を見る℃p勢を保(たも)っていました。
 五十四年の五月から七月にかけて、三件ほど、学会批判を行なった僧侶があり、学会首脳から私に、
 「何とかしてほしい」
と言ってきました。
 私は
 「地方協議会の場で宗門側にお話すればいいではないですか」
と言いましたが、
 「いや、協議会で言っても埒(らち)が明かないので、君に頼むんだ。どうか猊下や活動家僧侶に話して、止めさせてほしい」
と言いますので、その旨を内事部主任理事にお話し、また、活動家僧侶の中心者に伝えて制止するようお願いしました。
 双方から、さっそく該当する僧侶に対して、学会批判を中止するよう計らってもらいました。
原島 創価学会首脳は、山アさんが大講頭になったのはけしからん、などと言いながら、一方では山アさんを使うという、支離滅裂(しりめつれつ)なやり方を続けたのですね。
山ア もっとも、日達上人は、それまでと違って「五月三日」を契機に、何とか創価学会との問題をひとまず収拾して、宗門の秩序を回復したいとのお気持ちを強くお持ちでした。
 その気持ちをハッキリ話され、だからこそ私も、真剣に仲介したのです。
 こうした私の心持ちを、日達上人は、五月三日の特別講演の中で
 「幸いにして会長の英断と、心ある人々の努力により再び秩序の回復に向かい」
と言われて、さりげなく労をねぎらってくださいました。

影響力の低下恐れた池田大作
日達上人の御引退後を睨む

原島 学会内では、
 「ここまで引いたのだから、これ以上、厳(きび)しく言われることはないではないか」
という気分が支配していました。
 しかし、何とか「五月三日」を契機に、紛争を終わらせたいという気持ちも確かにありました。
 そのために、できるだけ約束を守ろうと。
 しかし、池田大作だけが大不満でした。
 悔(くや)しさと、自分が本当に棚上げされるのではないか、との不安で、いら立ち、焦(あせ)り、じっとしていられない様子でした。
 そうした気持ちがあったことを、今年四月、秋谷栄之助氏を総括した際に、
 「北條にも、反逆者に影響されて、俺を棚(たな)上げしようとの意志が見られた」(取意)
という言い方で、思わず洩らしています。
 そして、その気持ちを、首脳達に毎日のようにぶつけていたので、首脳は身体が固まってしまって動けなくなってしまったのです。(笑い)
 それで山アさんの力を借りて、池田大作の圧力をかわそうとする一面があったのも事実です。自分達の気持ちを、山アさんの言葉という形で表わそうとして、山アさんに相談を持ちかけたのです。
山ア 日達上人は、活動家僧侶からの突き上げと、宗務院の慎重な対応との間に入り、その時その時で御苦心されていました。
 しかし、日達上人の方針は一貫しておられ、
 「私の仕事はこれまでである。秋には隠居して、その後のことは次の方に任せる」
という御決意で、一切を進められておられたのです。
原島 池田大作も首脳達も、そうした方向を感じ取っていました。そして、次の御法主は、新しく総監になられた阿部信雄御尊師(当時・後の日顕上人猊下)であろう、と見当を付け、池田大作は阿部総監に取り入ろうと考え始めました。
山ア 昭和五十年秋、私が池田大作に
 「日達上人は、次を阿部教学部長に譲(ゆず)られるおつもりのようですよ」
と進言して以来、それまでの、どちらかといえば阿部教学部長を嫌っていた姿勢を改め、取り入ろうとする姿勢に転じたのです。
原島 私も、それまでは、教義上のことで、学会に対して直言されることの多かった阿部教学部長に、何度か、ムキになってぶつったことがありました。後になってみれば、失礼この上ないことですが。
 しかし、五十年後半から、池田大作は、
 「阿部教学部長にはムキになって立ち向かうな。これから学会の味方にしなくてはならないからな」
と意味深長に言うようになりました。
 それ以来、私は、宗門との打ち合わせの場には、あまり出されなくなりました。
 そして、昭和五十四年六月頃になると、池田大作は、
 「秋には日達上人は隠居して、次の法主になる。そうしたら反撃に出る。それまでの辛抱(しんぼう)だ。それまで、何と言われようと、今のままで耐えるのだ」
と、首脳達に言いました。
 御代替わりのゴタゴタの時がチャンスだ
と狙(ねら)っていたのです。