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2007年01月26日

日達上人の御遷化と日顕上人の御登座

御座替り想定し邪智巡らした池田
日達上人の御遷化後、激動の状況に

辞任後の露骨な院政と池田礼讃
「辞任は単に作戦」が池田の本音

山ア 昭和五十四年五月から七月にかけて、池田大作はガッチリと院政を敷(し)いたわけですが、まだ池田の側(そば)におられた原島さんに、その間の様子をぜひお聞きしたいですね。
原島 池田大作は、まず、首脳や最高幹部を締(し)め上げました。五月三日の直後、
 「創価学会は俺そのものだ。私が創価学会の魂(たましい)だ。お前達は、私の全財産をただ預かっているに過ぎないのだから、『一時お預かりいたします』という一札を書くべきだ。また、私を永遠の師≠ニ仰(あお)いでいく、ということも、誓約したらどうだ」
と言い、皆から誓約書を取りました。会長を退(しりぞ)いたといっても、全てはそのまま、第一庶務も特別室も専用施設も全く変わりません。
 そして、盛んに会合に出かけ、その記事を『聖教』に掲載するよう求めました。
 特に、五月二十六日の幹部会では、北條会長・秋谷副会長らに
 「不肖(ふしょう)私は、第三代会長・池田先生の全てを継承するためにこの立場に立った」(北條)
 「池田先生の広宣流布への大情熱、大感情に触れて、初めて使命に奮(ふる)い立ったのではないだろうか。この魂に刻んだ学会精神は、崩すことも、消し去ることもできない」(秋谷)
等と、池田教路線の継承を高らかに宣言しました。
 また婦人部幹部には、
 「今回辞任した理由は、対外的、とくに宗門に対する建前である。私は頭がよいだろう。うまくいったんだよ。皆、心配することはないよ」
と本音を洩らしました。
 五月二十一日に、野崎勲氏・溝口隆三氏らが妙真寺で活動家僧侶と会いましたが、その時のことを、帰って池田大作に
 「坊さん達の目は、学会の方に向かなくなって、宗門内部に向いているらしい。だいぶ静かになりそうです」
と、池田大作を喜ばせるような報告をしました。
 それで池田大作が図に乗って、二十六日の幹部会で北條以下の首脳に池田礼賛(らいさん)をやらせたのです。
山ア 活動家僧侶達は、さすがにエキサイトして、六月十三日には、一斉に御講で創価学会批判を展開しました。
 その後、目黒会館を常住御本尊ごと外郭(がいかく)会社に売り払い、結婚式場として営業させていることや、学会版経本の回収が全く進んでいないことなどが次々に発覚し、七月十九日の「最高教導会議」では、阿部総監をはじめ、宗務院や内事部の役僧が厳(きび)しく指摘し、改善を命じられたのです。
原島 創価学会はシュンとなりましたが、その三日後に日達上人が御遷化(せんげ)されました。
山ア 急なことでしたから、宗門としても大変だったでしょうが、日達上人が御生前、阿部総監に御相承されていたことが明らかになり、阿部日顕上人が六十七世として御登座されました。

日顕上人は紛いなき正嫡六十七世
省みて慚愧に堪えない相承誹謗

原島 そのことは、当時、宗内では当然のことと受け取られたようですね。
山ア 日達上人の側近くにいた菅野慈雲御尊師らが、「日達上人は『次は阿部にする』とはっきり言っておられた」と証言されたこともあって、御座替わりは平穏に行なわれました。
 活動家僧侶達も、その時はべつに騒ぎませんでしたし、日顕上人に従う姿勢を見せました。
 活動家僧侶が日顕上人に強く反発しはじめたのは、同年十月八日の院達からです。
 それでも、何とか折り合っていこうという姿勢は見られたのですが、昭和五十六年七月に、宗務院の制止を振り切って日本武道館で檀徒大会を強行したために、活動家僧侶が大量に擯斥(ひんせき)処分に付されました。
 活動家僧侶の中心メンバーの間では、この処分に対抗するためには
 「日顕上人は、日達上人から相承されておらず、正当な法主・管長ではない。法主・管長でない人の下した処分は無効である」
と主張して、処分の不当性を訴えるしかない、ということになり、日達上人は御相承の儀式等をなさる前に御遷化されたのだとして「管長地位不存在確認訴訟」を起こしたのです。
 私はその頃、創価学会から恐喝(きょうかつ)罪≠ナ告訴され、さまざまな手段による激しい攻撃を受け、また、御宗門との関係も断絶していたことから、正信会と歩調を合わせていってしまいました。そして正信会を援護するため、ちょうど、『週刊文春』に連載中であった手記の中で「相承批判」を行ない、また、日顕上人を中傷してしまったのです。今から考えると、まことに畏(おそ)れ多いことで、慚愧(ざんき)に耐えません。
 当時の私は、「御相承」がどのようなものか、まるで知識がなく、そして、ちょっと思索を巡(めぐ)らせば、日達上人は心臓や血管に障害があられ、いつ何が起こってもおかしくない状況であられることを、御自身も前年から御承知であり、ゆえに法灯連綿と伝えられてきた「血脈」を、御自身の代で絶やされるようなことをされるはずがなく、万一に備えて用意されておられたであろうことは、容易に思いついたはずなのですが――。
 そして私自身、日達上人が、御生前
 「次は阿部にする」
と明言しておられたのを聞いていたのですが、公に行なわれる儀式≠ニいう形だけにとらわれ、また、当時は、日顕上人が創価学会を擁護(えんご)されているように思えて、反発する気持ちを持っていたのです。
 そのため、あのような見当はずれの、無礼なことを書いてしまったのです。
 私は、平成三年以後、そのことに気付き、そして平成七年十二月、正式に文書でそのことをお詫(わ)びして許していただき、日蓮正宗信徒に復帰することができました。
原島 私も、似たようなものです。長い間、正信会に身を寄せていたものですから、なかなか考えが改まらず、そちらの人達への愛着もあり、平成十年を過ぎて、先に妙縁寺信徒となっていた妻の折伏と、御住職の光久御尊師に諭(さと)され、お詫びして日蓮正宗に復帰できたのです。

池田のしたたかな権謀術数
自らの復権と宗内の分裂計る

山ア それにしても、昭和五十四年七月以後、池田大作はじつにえげつないやり方をしましたね。
原島 この年の春、池田大作は、日達上人が秋には隠居されて、次を日顕上人に譲(ゆず)られるおつもりであることを知り、ただちに復権≠ヨ向けて行動を起こしました。
 そもそも池田は、いずれ、二・三年しないうちに代替わりがあるだろうから、その時の宗門の混乱に乗じて復権≠仕掛けるつもりでした。
 ところが、わずか数ヶ月後に御代替りが行なわれる見通しとなり、池田大作は慌(あわ)てて復権工作≠ノ全力をあげたのです。
 そのために、まず宗門の分裂を図ったものと見られます。
 わざと、日達上人や活動家僧侶の神経を逆なでするような「開き直り発言」を首脳にやらせたり、これ見よがしに
 「学会を支配しているのは俺だ」
と、院政ぶりを誇示(こじ)してみせ、活動家僧侶の反学会感情を煽(あお)る一方で、阿部総監の周囲に対しては平身低頭して接し、最大限、媚(こ)びました。
 それでいて、心から阿部総監を信頼していたか、というと、陰(かげ)では悪口を言っていたのです。
山ア そうした面従腹背(めんじゅうふくはい)ぶりは、日達上人の御遷化後は、いっそう露骨(ろこつ)でしたね。
 そのうえ、御遷化の直後から、
 「俺を辞めさせたのは山友だ。山友は、宗門の権威を借りて学会を乗っ取ろうとしているのだ。お前らは仇(あだ)を討て」
と幹部達をけしかけましてね。それまでは、私と顔を合わせると、ニコニコしてあいさつをしていた幹部達が、プイと横を向いたり、憎々しげに睨(にら)み付けるようになりました。
原島 御座替わりの直後から、『聖教新聞』では、
 「血脈付法の日顕上人に信伏随従(しんぶくずいじゅう)つかまつります」
という趣旨の文字が毎号踊るようになりました。
 そして、「『六・三〇』を学習しよう」といった記事が掲載され、社説でも、
 「過去の逸脱(いつだつ)を改めて、新たな御奉公に邁進(まいしん)しよう」
といった内容が記載されました。
 今までそんなことはなかったのに、日顕上人の御書講義が頻繁(ひんぱん)に掲載されるようになりました。
山ア 『聖教新聞』は、七月二十二日を境に、見事な紙面の変化ぶりでしたね。
 そのように、日顕上人に対しては恭順ぶりを示す一方で、組織では、活動家僧侶を刺激するような指導が徹底されました。
 こうして池田は、宗内の分裂を計っていったのです。
原島 日顕上人としては、五月三日以後は、日達上人の
 「当分和解を尊重し、見守る。その間、宗務院を立て直し、宗内秩序を回復してもらいたい。だが、創価学会の逸脱が続くようなら、きちんと糺(ただ)していけ」
との御指示を守って、宗内秩序の回復に努められました。
 それに、当初は活動家僧侶も従っていました。
山ア 日顕上人は、創価学会に対して逸脱の是正を厳しく求められ、創価学会は、『聖教新聞』の紙面でこれに全面的に従う姿勢を見せました。
 ですから、活動家僧侶や檀徒が創価学会のこうした姿勢を無視して、以前と全く同じように創価学会攻撃を続けるのを放置しておいては、公平さを欠く、と判断されたと思います。それで、活動家僧侶や檀徒の創価学会批判を制止されるようになったものと思います。
 たしかに、昭和五十四年八月から五十五年・五十六年にかけての『聖教新聞』を見ますと、創価学会は、平身低頭して謝罪と反省を繰り返しています。
 そうであれば、これを一方的に責めまくることを許しては、不公平になりますからね。