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2007年01月26日
平成二十一年 地涌倍増を目指して!
障魔乗り越え、いよいよ講中一結!
御命題達成に向かって活気づく
妙清寺がある京都市北区は、歴史の街・京都市の北に位置し、古来より都人(みやこびと)から北の山∞北の野≠ニ呼ばれてきた地である。この地の歴史の古さを象徴するように、先土器時代や縄文時代からの石器・遺跡なども発掘されており、また、中世には、大徳寺(禅宗)や金閣寺(鹿野苑)、上賀茂神社などの数々の神社仏閣が建設された。
妙清寺は、京都駅より地下鉄で十三分の北大路駅で降り、そこから徒歩約五分という、交通至便な住宅街の中にある。
妙清寺の南正面には幅二十bの紫明通(しめいどおり)が東西に通っており、広い中央分離帯には唐楓(とうかえで)やイチョウなどの落葉樹が植えられていて、さながら公園のような佇まいで、さらに東方二百b先には賀茂川や鴨川公園があり、南東の方角には大文字山を臨むことができる。
妙清寺が建立されたのは、日興上人並びに日目上人の六百五十遠忌にあたる昭和五十七年十一月である。当時の御法主・六十七世日顕上人猊下は、かつて、京都市右京区の平安寺住職であられた関係から、京都の東西南北に正宗寺院が必要であることを思われ、既存の洛東の住本寺・洛南の九条住本寺(※両寺は現在、正信会僧が占拠)、洛西の平安寺に加えて、この洛北地域に新寺院を建立されたのである。
昭和六十二年に、二代目住職として菅原信了御尊師が赴任され、現在に至っているが、その間の平成三年に池田創価学会が日蓮正宗から離れたことにより、妙清寺は信徒○世帯からのスタートを余儀なくされた。しかし、同年六月、正信を求めて寺院に帰属した四十三世帯をもって、法華講妙清寺支部が結成された。
以後、京都における正法布教の主要寺院の一つとして、創価学会からの執拗な嫌がらせを跳ね返しつつ、折伏弘教に励んできたが、昨年の二月七日、奇しくも興師会のその日、三十年近く正信会の邪義に覆われていた九条住本寺から、数世帯の人々が、それまでの執着心を捨て、戒壇の大御本尊への渇仰恋慕の一念で、妙清寺の法華講員として帰属した。そして、徐々にではあるが、その波紋が拡張している現状である。
学会による悪質な嫌がらせ
昔から「常勝関西」を謳(うた)ってきた創価学会にとって、京都の勢力が減退することは、どうしても避けたかったのであろう、妙清寺に対する妨害・嫌がらせは激しいものであった。
過去を遡ると、早朝、寺院の門の周辺に人糞やガラクタ・ゴミがまき散らしてあったり、時には松の木に下着がぶら下がっていることもあった。また、何者かが、正門のガラスにコンクリートブロックを投げ込むという事件があったり、夜中は、無言電話・脅迫電話等でおちおち寝ることもできない、という状態が続いた。
その他、お骨の引き取りの際は、「骨壺の骨が違う」と、あらぬ言い掛かりをつけてくることもあった。
最近では、二人組の学会員が寺院に押し掛けてきて、セカンドバッグのファスナーを少し開けて録音か録画をしていた。それに気付いた御住職が、「バッグを少し開けて、何してるんだ」と問うと、慌てた学会員は「何もしてませんよ」と言って車に戻り、バッグを置いてまた来た。そのコソコソぶりには、呆れるばかりである。
また、法華講青年部の一人を尾行したあげく、執拗に脱講を迫ったり、あえて老齢の法華講員宅を狙い、認知症だと分かっていながら、強引に「脱講届」に署名捺印をさせてしまう、ということや、「二度と来ないからサインをしてほしい」と懇願して、本人の知らないうちに未入信の家族から「脱講届」の署名捺印を取る、ということもあった。
聞くところによれば、創価学会の会館で行なわれた会合で、「○○寺からは○世帯が脱講!」などと華々しく発表して喜んでいたそうだが、実際に妙清寺から脱講した講員もいなければ、寺院に届けられた「脱講届」なるものも一通もないのだから、摩訶不思議。学会はもはや末期症状をきたしている、としか言いようがない。
一方、創価学会からの帰伏者は跡を絶たないが、最近の帰伏者は、以前から学会に疑問を持っていた人が多く、その理由としては、信仰とは無関係の選挙活動や、財務の強要、強引に押し付けられる出版物、独善的な話等に、ほとほと嫌気がさした、というようなことがほとんどである。その方達が言うには、「学会の会合へ誘われれば誘われるほど、脱会したくなる」とのこと。さもありなん、というところである。
中には、学会から脱会した法華講員に会ったとたん、「あれ?……元気そうじゃないですか」と、意外そうな顔をする学会員もいるそうだが、その言葉から察するに、学会の会合では「あの人は今、罰で大変だ」などということが言いふらされているのであろう。脱会者をくい止めるための、創価学会の常套手段である。
数々の障魔を乗り越えて
「妙清寺支部が結成されてから十五年、その間は、多難な航海でもあった」と、法華講員が語る。
嫌がらせ電話等は当初の数年で収まったものの、平成十四年の三十万総登山の時などは、法華講員の中に学会の内通者を作り(いわゆるスパイ講員≠フ送り込み)、その者を使って講中内部の混乱を起こすための工作が、水面下で進められた。
内部告発≠擬した怪文書が飛び交い、それによって御住職への不信感を煽り立てて、役員会を混乱させる、そして、それと歩調を合わせるように『聖教新聞』等の学会機関紙が妙清寺の混乱を針小棒大に報じる、というパターンである。
そうした中で、一部の元講中役員がそれに乗せられたことは、不幸な出来事であったが、しかし、それ以外の講員は全員、冷静に信仰を続けていた。それは、御講・座談会・役員会等で、正法を信受すれば必ず三障四魔が起こること、また、障魔が起こるのは、御法主上人猊下の御指南が御本仏日蓮大聖人の御意(みこころ)に適っているとの証しであること等を、御住職から伺っており、それが今、現実に起こっていることを、誰もが充分に領解していたからに他ならない。
そして、
「大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし。火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや」(御書一五五五頁)
との御金言のごとく、この障礙(しょうげ)を乗り越えていく過程で、法華講員達の破邪顕正の信心はいよいよ鍛えられたのである。
御命題を受け、活気づいた講中
現在、妙清寺法華講では、第一日曜日は「折伏の日」として、広布唱題会の終了後、講中挙げて折伏活動に臨んでいる。
また、寺院での唱題行は、毎日、昼と夜の二回行なっており、「何事においても唱題根本」を実践している。そして、特に青年部は、寺院を拠点に、毎日のごとく集合離散しては折伏を行なっているのである。
京都という土地柄、青年部には学生が多く、同級生や友人に気軽に信心の話をして、興味を抱いた人を寺院に連れて来る。寺院では、待機していた同志が折伏を手伝い、あと少しで入信しそう、という段階まできたところで御住職や執事さんに話に加わっていただき、後押ししていただいたり、必要な時には破折をお願いすることもある。
入信しても、学生ということで内得信仰から始める場合も多いが、折伏の輪は拡がり、ほとんどの人が入信してすぐに親に信仰の話を始める。そうした中で、親から猛反対をされる人もいる反面、許しを得て、堂々と信心ができるようになった人もおり、一様に、親への恩を報ずべく、さらなる折伏を決意している。
また、講中の活動としては、壮年部・婦人部を中心に、地区・班の体制を確立しつつ、毎月の地区座談会を行なっており、その内容は、体験談の発表はもちろん、総本山参詣の意義や信仰の基本などを学び、個々の信心深化をはかっている。
とくに婦人部は、毎月、地区婦人部長会を開催し、御高齢や遠方という理由でなかなか寺院に参詣できない方への細やかな配慮をしながら、平成二十一年に向けての意義を徹底している。
さらに、法統相続の上からも大切な少年部の育成強化のために、子供を持つ婦人部が中心となり、女子部の協力も得て、定期的に子供向けの会合をもち、その中で寺院参詣の意義や信心即生活の実践等を教えている。
このような講中活動は、来たる平成二十一年の佳節に向け、御住職の指導のもと、僧俗一体となって真剣に取り組むようになってから活性化されてきたものだという。
そうした意味でも、菅原御住職をはじめ妙清寺講中は、平成十四年に日顕上人猊下から「平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年に向けて地涌倍増を」との御命題を賜わり、さらに御当代日如上人猊下が、その御命題達成を促進あそばされていているおかげである、と深く感謝申し上げ、両猊下にお応えすべく、さらなる前進を期している。