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2007年02月16日
ついに正法正師のもとへ帰る!!
山ア 生命あるかぎり正宗に御奉公を
原島 学会を破折し池田らを救わん
正信会と「シーホース」問題
板挟みになった山崎氏の苦悩
原島 「正信会」は、武道館で宗門方針に背(そむ)く檀徒総会を開こうとして、宗務院から「強行するなら処分する」と言われ、宗門に全面対決する姿勢を取り、私や山アさんに「いっしょに蜂起(ほうき)しませんか」と誘ってきました。
山アさんは、池田と和解して、シーホースの整理に金を出してもらい、身動きが取れない状況となっているのに、周りが動き出し、山アさんを激しく突き上げる、という状態になりました。
山ア たしか昭和五十五年六月初め頃、私と原島さんが、正信会の首脳と川崎駅近くのホテルで会った際、
「私達は、宗務院・学会と全面対決する。ついては、あなた方も造反ののろしを上げてもらいたい」
と要請されましたね。
原島 そうですね。私は、信頼していた御僧侶に相談したところ、
「あなたが、自身の信心で決められることです」
と言われ、自分なりに考えたあげく、学会を飛び出し内部告発を行なおう、との腹を決めたのです。
山アさんは「原島さんがそう決意されたのなら、私も行動を共にします」と言いました。
山ア 私は、昭和五十年から、「東洋物産」という外郭(がいかく)会社の不始末の整理に関わり、池田大作・北條浩氏らと共に弁護団を使って対処したのですが、それがこじれて、シーホースという休眠中の会社を使って、元・東洋物産の冷凍食品部門を処理する、という仕事を続けていました。
長くなるので、詳(くわ)しい経緯は省略しますが、私は、学会の仕事として始めたという意識がありますから、その処理について、学会の協力を求めたのです。そして、負債を背負わせたまま切り離した会社に、学会から金を出す、ということになりました。それが三億円≠フいきさつです。
この資金を元に、シーホースの整理は順調にいっていたのですが、六月になって、内藤國夫氏が『月刊現代』で池田大作の性スキャンダルを書いたこと、そして、私と原島さんが造反してしまったことで、学会は、私の口を封じようと、この三億円を恐喝(きょうかつ)された≠烽フとして告訴したのです。
私は、造反を決意したときから、そうなるかもしれないと覚悟はしていましたが、それまでは、やはり学会とは穏便(おんびん)に関係を断ち、その後は学会と離れたところで静かに暮らしたい、という保身≠フ気持ちが強かったため、妥協に妥協を重ねてきたのです。
今では、そのことに対し罰を受けたのだ、と思っています。
恐喝事件の裁判では不本意ながら有罪となり、二年あまり牢(ろう)に入りました。
私は、この裁判は冤罪(えんざい)であると思っていますので、再審請求の準備を続けています。また現在、学会や関連出版社を相手に名誉毀損(めいよきそん)で提訴した裁判でも、恐喝裁判の内容が焦点となっていまして、激しく争っている最中です。
そうしたことで、皆様にご心配をおかけして、たいへん申し訳ないと思っています。
昭和55年以降は迫害の連続
投獄されて味わった開放感
原島 私も山アさんも、昭和五十五年六月以後、創価学会の激しい迫害に遭(あ)い、たいへん厳しく苦しい毎日を凌(しの)いできました。
よくここまで生きてこられたと、しみじみ思いますよ。
山ア 夜寝るとき、無一文で、そして明日からの闘いの展望も開けず、
「えい、どうにでもなれ」
といった気持ちで寝てしまって、その場その場を何とか過ごしてきた、といった日々でした。
私は、「正信会」とは昭和五十八年頃まで親しい関係にあったのですが、昭和五十八年頃から、正信会の中心者達との間で、いろいろなことを巡って対立し、その後は、距離を置くようになりました。
原島 私は、昭和五十六年以後、「正信会」と行動を共にしました。継命新聞社に籍を置き、『継命』の編集に積極的に関わってきました。
しかし、山アさんが「正信会」から離れた頃から、「正信会」に違和感を持つようになり、終わり頃には、『継命』の編集の仕事にもほとんど身が入りませんでした。
平成三年に、御宗門が創価学会を破門されたことを知り、
「ああ、これで、私と山アさんの役目は終わったな」
と、ホッとしました。
山ア 私も、牢に入る直前に、その状況を大石寺におられた御僧侶から知らされ、もったいないことに、日顕上人のお言葉まで伝えられました。
「これで、もう思い残すことはない」
と思い、牢に入るときは、
「これで当分、生活の苦労はなくなったし、一人で静かに暮らせる」
と思い、妙に晴れ晴れとした気持ちになりました。刑務所の身体検査の時、そして最初に入った病舎で、私がいつもニコニコしているので、医師や看守から
「お前はそんなに牢に入るのが嬉(うれ)しいのか」
と冷やかされたくらいです。(笑い)
原島 たしかに、牢に入れば生活費はかからない。(笑い)
それに、周囲に関係者がいないから、余計な気を遣(つか)うこともありませんね。
「全てから解放された気持ち」
というのはよくわかりますよ。
今、成仏の道へと戻る
力の限りの御奉公を誓う
山ア 牢の中でもう一度、御書を勉強し直し、自分の信心の誤りをいろいろ反省しました。
そして、創価学会が破門された以上、私の役割も終わったと思い、これからは、自分のために生き、平和な老後を送ろうと思いました。
ところが、平成五年四月、生きたまま世の中に戻ることができた私は、様子がすっかり変わっているのに驚きました。
なんと、公明党が細川政権に加わって与党となり、三名も大臣を出して、池田大作は「デージン、デージン」と浮かれている。
一方で創価学会は、ありとあらゆる卑劣(ひれつ)な手段を用いて、御宗門と日顕上人を攻撃し続けている。これではいけない、と思いました。
そこへ、当時の自民党からぜひ協力してほしい≠ニ声をかけられ、また、学会・公明党に危惧(きぐ)を抱く各界からも学会のことを教えてもらいたい≠ニ電話がありました。
結局、望むと望まぬとに拘(かか)わらず、私は創価学会問題から逃れられないのだと悟(さと)り、再び創価学会批判を開始したのです。
原島 その頃、私はまだ継命新聞社にいて懊悩(おうのう)していました。
山アさんは、病でボロボロになった身体で、全国を飛び回っていましたね。
山ア 私は、日蓮正宗に対し、血脈否定という大背反をしてしまった身ですし、それに、その頃は、社会を相手に運動していましたので、特定の教団に在籍しない一個人で活動していこうと思っていたのです。
ただ、かつて宗内で発生した諸々の問題の根本原因である創価学会が取り除かれたのですから、「正信会」の人達が御宗門に帰伏できないかと思い、自分なりに彼等を説得したのですが、長い間の争いの中で、彼等は頑(かたく)なな心で固まっていて、そういう気持ちにならないことがわかりましたので、それ以後、自分の行く道だけを考えることにしたのです。
そして、平成七年六月頃から、妙観講講頭・大草一男氏の再折伏を受け、いくらか疑念として残っていたことも解け、同年暮れ、日顕上人にお詫びの文書を奉呈(ほうてい)し、お許しをいただいて理境坊の信徒となりました。
原島 お互い、安心して成仏できる場所へと帰り着いたのですね。
山ア 今の私は、一日一日生きていることに満足しており、何の名聞名利もありません。生命あるかぎり随力弘通に励み、静かに一生を終わりたいと思っています。
原島 私もそうです。
まだまだ、これからいろいろと書き、邪教と化した創価学会を破折し、日達上人が仰せられたように、地獄に堕(お)ちていく学会員や元師匠の池田大作を救ってあげなくては、と思います。
苦しかったことも、今ではよい思い出です。
山ア 日顕上人の広いお心と御慈悲に感謝し、第六十八世日如上人に、力のかぎり御奉公してまいりましょう。
長い間、どうもありがとうございました。