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2007年04月04日
学会・公明党OB有志が座談会開催
入信神話もエレベーター相承も真っ赤なウソ
当時を知る有志の証言で驚愕の事実が次々!
今年は、創価学会第二代・戸田城聖会長の五十回忌にあたる。この期に、池田大作を糾弾し、創価学会員の覚醒(かくせい)を促(うなが)そうと、「創価学会・公明党を糾(ただ)すOB有志の会」(※以下「有志の会」)が動き出した。
同会は、その名のとおり、元学会本部職員や元公明党議員が中心となって平成十七年に結成された会で、これまでも、会員個々が、様々な形で池田創価学会を糾弾する活動を行なってきた。
その「有志の会」が、戸田会長の遺徳(いとく)を偲(しの)ぶとともに、第六十五世日淳上人に対する戸田会長の「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じください」との申し出に照らして、それに明らかに違背(いはい)した池田大作および現在の創価学会を糾弾し、破折するため、都内で座談会を開催した。
この日は、奇しくも創価学会が戸田二代会長から、池田名誉会長をはじめとする青年部に広宣流布が託(たく)された日≠ニする三月十六日。
座談会に参加したのは「有志の会」代表幹事を務める水口和夫氏と小川頼宣氏、同会女性代表の小川洋美さん、同会に所属する三宅妙子さん、そして同会事務局の古谷博氏であった。
後継指名の状況を問われ池田は!?
「次の会長は衆議で」が戸田氏の遺志
水口 本日はお忙しいところをお集まりいただき、ありがとうございます。
ご案内したとおり、戸田先生の五十回忌を迎えるにあたり、この座談会を口火に、師敵対した池田大作および創価学会を糾弾し、破折するための種々の活動を展開していきたいと思います。ご協力・ご支援を、よろしくお願いいたします。
小川(頼) 今日は、いわゆる「三・一六」です。ここに焦点を当てて、座談会を進めていきたいと思います。
古谷 僕は、いわゆる「エレベーター相承」について、池田に直接質(ただ)した人から、その時の様子を直接聞いたことがあります。それは、創価学会の草創期に活躍された埼玉県大宮市(現・さいたま市)松島ふくさん(※松島さんの娘は、元創価学会女子部長で参議院議員も歴任した渡部通子)。すでにお亡くなりになっていますが、物事をストレートに言う人で、池田からは嫌われていたようですが。
松島さんは、他にも何人かいる前で、池田大作に、「先生が、戸田先生から『創価学会を任(まか)せる』と言われたのは、本当にエレベーターの中だったのですか」と質した、というんです。すると、池田は動揺し、シドロモドロになった、というんです。
池田大作という人間は、核心を突かれた時にはものすごく動揺する人ですから、あれは絶対にウソに違いない≠ニ、松島さんは確信していましたよ。
小川(頼) 歴史の改竄(かいざん)は権力者の常ですからね。そもそも池田自身が「エレベーター相承」を言い出した時には、それは「(大講堂の)五階から一階に下りるエレベーターの中」での出来事だったものが、現在では「一階から六階に上がるエレベーターの中」だったことに変わってしまった、ということが明らかになっている。そこに松島さんの証言が飛び出した――。「エレベーター相承」などというものの信憑性(しんぴょうせい)は、すでに完全に崩(くず)れたと言っても過言ではないでしょう。
しかも、戸田会長が最高幹部を前に「(次の会長は)みんなで決めてやってゆけ」と語った、という証言もある。
大講堂落慶の祝宴の席で、戸田先生に「次の会長は誰ですか」と聞いたのは、当時の辻青年部長だった、そしてその時の答えは「みんなで決めていけ」ということだった――と、石田次男さんが書き残しています。石田さんは「これが、私への後継指名が解除になった瞬間だった」とも書いています。
水口 龍年光さんは、それとは違う場面について「先生の身体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事たちと、池田・北條・森田・龍の四参謀が、揃(そろ)って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。辻は『先生、三代会長は誰にするんですか』と単刀直入に尋(たず)ねた。先生は、はっきりした声で、『それは、お前たちが決めるんだ』と答えられた」と書いています。やはり具体的な後継指名はなかった、ということでしょう。
史実の改竄は池田の常套手段!?
あの入信神話も真っ赤なウソ!
古谷 ところでこの前、山ア正友さんと話す機会がありました。その時も「エレベーター相承」の話になったのですが、山アさんは、「創価学会の後継者については『水滸会(すいこかい)記録』(※戸田会長が青年部に薫陶(くんとう)を与える目的で開いた会合の筆記録)に記録が残っている」と言うんです。それには「学会というのは実力主義である。力のある者が(跡を)取ればいい」ということが厳然と書かれている、というんです。そして、これを見た池田がこれはいける!≠ニ判断したきらいがある、と。
もっとも、『水滸会記録』というのは、「水滸会」に参加した人達が自分なりに記録・記憶していたことを集大成したものだから、そこには、いろいろな思惑(おもわく)が入り込んでいる可能性がありますが。
水口 池田が『水滸会記録』に手を加えた、ということも考えられますね。
古谷 そうですね、池田は『水滸会記録』に手を加えられる立場にありましたからね。
小川(頼) 何人かいた中で、それが一番できる立場でしょう。しかも、『水滸会記録』にそういう記述を入れ込むことで、自分が会長になったことの根拠にできるわけだから。
『信長公記』だって、江戸時代に作られたものですからね。徳川幕藩体制が固まってから、遡(さかのぼ)って織田信長のことを書いたものです。
水口 歴史が、時の権力者に都合のいいように変えられる、ということは否定できませんよね。
三宅 一番都合よく変えられているのは、戸田先生と池田との出会いですよ。
池田は、私の家で行なわれていた『立正安国論』の講義の時に戸田会長と出会い、そこで即興詩(そっきょうし)を読んだ、などと言っていますが、それは真っ赤なウソです。
全員 ほう。
小川(頼) それは面白い。ぜひ聞きたい内容です。
三宅 たしかに、戸田先生は私の家におみえになり、『立正安国論』の講義をしてくださっていましたが、その講義は毎月第三日曜日に行なわれていました。池田大作が家に来たのは昭和二十二年八月十四日ですから、その日は木曜日です。絶対に『立正安国論』講義ではありません。普通の座談会です。
そして、当時の座談会は、小泉さんや辻さんが中心になって行なっていて、そこに戸田先生がおみえになったことはありませんでした。しかも、私の家では、座談会は玄関を入って右側の部屋、『立正安国論』講義の時は奥の仏間と次の間を使っていましたから、間違えようがないんです。
池田は、同窓生だった私の姉に連れられて、友人と一緒に座談会に来たんです。そこには戸田先生は絶対にいませんでした。また、池田が即興詩のようなものを読み上げた事実もありません。
小川(頼) なるほど。いやぁ、それは貴重な証言ですよ。
三宅 それから、池田が戸田先生の経営する日本正学館に勤めるようになったきっかけを作ったのは、私の母なんです。私の家は戸田先生の家と懇意(こんい)にしていたので、当時、蒲田工業会という小さなところに勤めていた池田に母が声をかけ、日本正学館に連れて行ったんです。
水口 それは、三宅さんのお母さんが、風采(ふうさい)のあがらない池田を哀れんで戸田先生に引き合わせたわけですね。
古谷 『人間革命』では、戸田先生が小平芳平さんに指示して、池田を連れてこさせたことになっていますが。
三宅 いいえ。きっと池田は、ある事情≠ゥら、三宅家との関係を表沙汰(おもてざた)にしたくなかったんでしょう。
小川(頼) その事情≠ニは?
三宅 話し始めると長くなりますし、今回の座談会の趣旨から少し外れてしまうと思いますので、またの機会にいたしましょう。
いずれにしても、池田はウソの天才ですよ。
古谷 神格化された池田の実像を暴(あば)くことができる内容であれば、次の機会にぜひ聞かせていただきたいですね。
権謀術数に長けていた池田大作
人心掌握術と策略で会長の座に
戸田氏の意中の人物は石田次男氏
多数派工作で会内を掌握した池田
小川(頼) 池田が皆から推挙(すいきょ)されて会長になった、というのは、それはそれでいい。そのこと自体を否定する必要はないんです。それを、「自分が唯一後継指名を受けた」ということにして、それを血脈相承に擬して「師弟不二」などと言い始めた、というのが問題なんです。
つまり、戸田先生と自分との間には誰も立ち入れない、戸田先生のことは自分を通してしか分からないんだと。そういうことにして、結局は自分自身の権威付けを行ない、自分の発言の絶対化を行なっていった、それが学会を大謗法の団体に変えていったのです。
しかも、北條さんが、自分たちは「雖近而不見(すいごんにふけん)」で、戸田先生をしょっちゅう見ていたにも拘(かか)わらず、何も知らなかった、と言って、池田の言うことを後押ししたものだから、いっそう拍車がかかった。
こうして戸田先生が「みんなで相談して仲良くやっていけ」とおっしゃっていた遺志は踏みにじられてしまったわけです。あるいは戸田先生は、本心では昔と変わらず、石田次男さんに継(つ)いでほしかったのかも知れませんが。
水口 戸田先生の奥さんの話として、人から聞いたことがあるんですが、戸田先生は「次は次男だな」ということをよくおっしゃっていた、といいます。御夫婦の間の会話ですし、戸田先生のお心は石田次男さんにということだった、というのは間違いないと思いますよ。
結局、池田が総務をやっていた空白の二年間≠ネんですよ。その間に根回しをして多数派工作をし、雰囲気を作って、昭和三十五年の三代会長への就任を迎えた、ということじゃないでしょうか。
古谷 龍さんは、先程話した戸田先生の枕元に行った時のことについて「音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際、はっきり池田を三代会長に指名してもらおう、というハラづもりだったようだ」「当然、『池田』という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう一度同じことを聞いたが、返事は同じであった」と書いています。池田の多数派工作は、もっと前から密(ひそ)かに行なわれていたのではないでしょうか。
小川(洋) 福岡ではみんな、石田さんが会長になられる、と言っていましたが、ところが、いつの頃からか急に「池田参謀室長が会長になられる」という話が広まって――。福岡に田中家というお宅があるんですが、そこが池田に取り込まれたようで、池田を担(かつ)ぎ上げる形になって――。結局、池田にとって、福岡では田中家が大功労者、ということでしょうね。
戸田氏の死後、頭角現わした池田
最高幹部らの池田への認識は!?
水口 そういえば、「三・一六」の時、私は大講堂の落慶法要の警備に就(つ)いていて、例の戸田会長を乗せる「車駕(しゃが)」作りを手伝ったりもしたのですが、池田が、戸田会長ではなく当時の小泉理事長に、「小泉先生」「小泉先生」とすり寄っている姿を見て、「あれ?」と思った記憶があります。当時の私は、池田が「先生」「先生」とすり寄るくらいだから、小泉理事長は、じつは相当な人に違いない、と思って見ていたのですが。(笑い)
小川(頼) それは、「車駕」が大きすぎたことに対し、戸田会長が「誰が作ったんだ!」と激怒されたことを人づてに知った池田が、小泉理事長に仲を取り持ってもらおうとした、ということもあったかもしれませんね。(笑い)
古谷 僕は小岩支部に所属していました。石田次男さんのあと、和泉覚さんが支部長になったんですが、当時、僕は中学三年生で、ある時、少年部の責任者の指導会をするから来い、と集められたことがあるんです。
ちょうどその頃から、青年部の会合に出ると「池田参謀室長というすごい人が出てきた」といった話を聞くようになっていましたので、僕も興味があって、和泉支部長に「池田参謀室長って、どういう人なんでしょうか」と聞いてみたんです。
すると、和泉さんは「ああ、たいしたことないよ」といった感じで。(笑い)
「池田君は僕がずっと面倒を見たんだ」みたいな話をするので、それで僕は、「和泉さんという人は、どういう人なんだろう」と不思議に思ったんですが、そのうちに、和泉さんが牧口会長の頃からの古参だということが分かってきて。
ですから、和泉さんなどは「池田?」という雰囲気だったようでしたが、結局、流れは止まらず、龍さんなどは、日蓮正宗創価学会は戸田城聖で終わった≠ニいう認識を持つに至ったようです。
人心掌握術に長けたカリスマ池田
されど個人折伏も体験も無し!
水口 龍さんは第四部隊長、池田はその下で班長をしていましたからね。
龍さんは異彩を放っていたけれど、強面で、みんなから恐れられていた。
それに較べて、池田は確かに人気があった。だって、ちょっと、しゃれた雰囲気があったし、「参謀室長、こんにちは」なんて言うと「おうっ、こんにちは」なんて言って、「頑張ろう! 令法久住(りょうぼうくじゅう)のために頑張ろう!」って。「君の名前は?」「うん、覚えとくぞ!」とかね、そういうのが会員には効(き)いちゃうんだよ。それで、パッと自分のベルトか何かを取って「これをあげよう」って、そういうのがまことにうまいんだよ。学会の体制の中で、ああいうことをやられたら、誰でも感激するよ。一般論として。
小川(頼) 池田は人心掌握(しょうあく)には長(た)けてますからね。大衆の心を引っ張る能力は優れてますね。でも、個人折伏は苦手だったんではないでしょうか。
私が入信した頃は、まだまだ草創期の名残がありましたから、男子部なんて折伏ができてナンボ≠ネんです。個人折伏ができない奴は、どんなに会合の運営がうまくてもダメなんですよ。
池田は、組織をワァッと盛り上げる、というのは得意だったけれど、個人折伏ができなかった。私がそう思う理由は、創価学会はこれだけ所帯が多いのに、「私は池田先生に折伏されました」という声が聞こえてこないからなんですよ。私でさえ、各県を回ると「学生部長に福大の座談会で折伏されました!」なんて声をかけてくる人がいるというのに。
ところが池田は、九州に何回来ても、それがなかった。だから私は、池田には個人折伏の経歴がないんじゃないかな、と思っているんです。
実際、いろいろな人が「池田さんは個人折伏が下手ですよ」と言っているし、そもそも自分自身も言っている。溝口敦さんの本に、池田の発言として、折伏ができなかった、ということが書かれています。
水口 龍さんにとって池田は、いつになっても折伏のできない、しがない班長のイメージしかなかったんじゃないでしょうか。
小川(頼) 後に池田が発刊した『若き日の日記』を読んでみると、明らかに龍年光攻撃と見られる箇所が、何箇所かあります。
それに、龍さんは池田の会長就任に反対した。それは、まだ経験が足りないし、そもそも宗教的体験を持っていないじゃないか、池田には戸田先生に比肩(ひけん)するような体験がない、と主張したと聞いています。
古谷 そうです。じつは戸田先生も、「大阪事件について」という、昭和三十二年七月の講演の中で、「今度は、学会としては、事件をおこしまして、理事長(小泉)や、参謀室長(池田)が十日か十五日入ってきました。私は戦争中に二年入ってきました」「二年の牢獄生活はちょっと長いぞ」と話され、池田の体験は物の数ではないと、暗に言われています。
自ら「総務」職を作り全権掌握
着々と後継の道固めた池田
小川(洋) それまでの創価学会幹部は皆、学校の先生だった人ですよね。ということは、池田の素姓からすれば、まさに赤子(あかご)の手をひねるようなもので、じっと我慢して、「小泉先生」と立て、「和泉先生」と立て、「原島先生」と立てる。そしてある程度の基盤ができたら、豹変(ひょうへん)していったのではないでしょうか。
水口 そういえば、辻さんも学校の先生だったよね。柏原さんもそうだ。
小川(頼) それと、最高幹部の間に、会長職というのは激務だ、という認識があったのではないでしょうか。牧口会長は七年で獄死し、戸田会長も会長就任七年で逝去(せいきょ)された。それで、みんな、自分ごときにはとても務まらない、と考えて尻込みしたのではないか。そんな話を聞いたことはありませんか。
古谷 ありますよ。本部職員の中でも、石田さんのことが話題になることがあり、その時に、なぜ石田さんが手を挙(あ)げなかったのか、ということが、不思議なことの一つに挙がりましたから。
小川(頼) 少しまとめてみましょう。
まず、戸田会長が亡くなった時点で、池田は学会の全体的な状況を的確に判断していたと思うんです。そして、人心掌握術に長けていたので、一般会員の心を確実に掴(つか)みつつ、御(ぎょ)しやすい幹部に取り入り、組織の中で着実に足場を固めていった。
そして会の実務を握るために「総務」職を作って、理事長決裁を含む全てを掌握するわけです。
今で言うなら、首相官邸に特別補佐官を置くようなもので、その役を自分が買って出て、すべて自分で決裁し、それを小泉理事長に提出した。小泉さんに残された仕事は判を押すことだけになっていた。それに気付いて「池田に騙(だま)された!」と。
あと、池田は、自分が後継者であるとするのにマイナスな材料が戸田先生の遺品の中に残っていないか、と心配になった。そこで池田は、戸田家にトラックで乗りつけて、遺品を漁(あさ)った。
そして使えそうな遺品は、逆に、自分が戸田先生の直接の後継者であるという証拠品として使った、と考えると、辻褄(つじつま)が合うのではないかと思うのですが。
古谷 なるほど。
池田を厳しく評していた戸田夫人
池田こそ学会大謗法化の元凶
小川(洋) 池田が、本当に戸田先生を恩師と思っているのなら、目黒のご自宅は、記念館のような形でそのまま保存するだろうと思うけれど、壊(こわ)して女子職員の寮にしてしまいましたね。
水口 戸田先生の遺品を、「学会の宝物にするから」と言って取りに来たけれど、奥さんが「これは絶対に渡せない」と言って拒否したことがあった、といいますね。それは御守御本尊様だったと、人から聞いた記憶があります。
小川(頼) 戸田先生の葬儀の後、学会が戸田家から拝借(はいしゃく)≠オていった遺品の中にあった日本刀が戸田記念館に飾ってあって、それには「戸田先生より拝領(はいりょう)した刀」との説明がつけられていた。それを見た戸田先生の奥さん幾夫人は、ひっくり返らんばかりに驚いた、といいます。
水口 それじゃあ泥棒ですよ。
小川(洋) 戸田先生の財産ですものね。
三宅 戸田先生の奥さんは、本当に温厚な方なんですが、池田の所業について語るときは厳しい口調でしたね。池田自身は、戸田先生の本当のお気持ちを踏みにじっていますよね。戸田先生が亡くなった時点から、「全ては自分のもの」になってしまっているんですよ。そのこと自体が許せません。
水口 そう、池田は、「戸田先生」「戸田先生」と言いながら、実際には戸田人脈を切り、戸田先生の私物までも自分のものにして、それで戸田・池田の師弟不二≠強調したわけですね。戸田先生は「みんなで仲良くやっていけ」とおっしゃっていたのに、これを否定して自分(池田)につけと。
小川(頼) つまり、戸田先生の遺志とは違う路線を行くために、戸田先生を利用したわけです。そして、これと同じやり方が、大石寺に対しても用いられるわけですよ。
池田はまず、総本山の覚えをいかにめでたくするかに全神経を集中するわけです。支配的な立場が確立するまでの、池田の大石寺に対する姿勢は、それなりのものだったと思いますよ。
戸田先生の七回忌の年に、福岡の立正寺さんで学生部幹部会があり、当時の九州第四部長の広田誠一さんという人から、本部総会に行ってきた時の話を聞かされました。広田さんが言うには、「僕は、池田先生の話はどうでもよかった。池田先生が猊下に対してどのような態度を取るのかを見たかった」と言うんです。それで、それだけをずーっと見ていた、と言うんです。そして、「それで初めて、僕は池田先生を信用した」と、一生懸命熱っぽく語ったんですよ。
古谷 へエー、広田が……。それは、ものの見事に騙されたということですね。(笑い)
小川(洋) パフォーマンスということですか。
小川(頼) パフォーマンスですよ。戸田先生にやったことを、そのまま大石寺にもやったわけですよ。でも、そういうパフォーマンスと、信心の真心から表われてくる姿とでは、本質が違うはずなんですけれどね。
古谷 そうですね。さすがの戸田先生も、池田大作の正体は見破れなかった、ということですね。もし見破っていたなら、池田大作だけは、後継者の対象から外すでしょうから。
水口 話はつきませんが、続きは次の機会に譲(ゆず)るとして、今回はここまでといたしましょう。
ともかく、戸田先生が池田大作を後継者として指名した事実はなく、そして、池田大作が、権謀術数(けんぼうじゅっすう)の果てに今日のような大謗法の創価学会を作り上げてしまった。我々は、このことを声を大にして訴え、また学会を糾していきたいと思います。