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2007年10月04日

悪書『日蓮と本尊伝承』の謀りを破す@

戒壇の大御本尊を冒涜する悪書出来
その邪説を破して学会の狙いを粉砕する!

 創価学会員・金原某の書いた『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』なる本が取り沙汰されている。
 同書は、戒壇大御本尊の相貌について論及し、大御本尊の書体は弘安二年十月期の御本尊の相貌(そうみょう)ではない≠ニした上で、大御本尊と弘安三年五月の日禅授与御本尊(大石寺蔵)の首題が一致した%凾ニ決めつけている。
 そして、史実を考察しても、当時の身延山久遠寺に大御本尊が実在していたとは考えられない≠ワた文献史料についても、これまでの大石寺は歪めた解釈をしていた=\―等とし、結局、大御本尊は後世の人の手で造立されたものであって、日蓮大聖人が出世の本懐として建立した御本尊などではない≠ニ結論付けているのである。

 同書はかなりの時間と労力(組織的な支援)をかけて、まとめられたものと思われ、今後、学会員を完全に大御本尊離れさせるため、また日蓮正宗信徒の信仰を揺さぶるために、活用される模様である。
 これを放置しておいて、万が一にも迷いを生ずる人々が出てはいけないし、何より日蓮大聖人からの御叱りを蒙(こうむ)ることを畏れて、とり急ぎ、その要点を拾って破折しておきたい。

当宗信仰者の立場を表す
鑑定調査それ自体が上慢・不敬

@当宗信仰の立場
 今日、日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆御本尊について(むろん日禅授与御本尊も同様)、写真撮影や鑑定調査を許していない。
 それは、釈尊の頭頂を上から見ようとして果たせなかった者の話が示唆するように、仏を信仰する者にとって、軽々に仏を測る対象とすることは、上慢・不敬にあたるからである。
 では、このたびの金原某のごとき、写真鑑定という角度から加えられる疑難には、最初から太刀打ちできないのか、というと、さにあらず。
 そうした調査鑑定によらなくても、本門戒壇の大御本尊の真実性については、『聖人御難事』『阿仏房御書』『日興跡条々事』等の文証、他山に伝わる傍証の数々――などによって立証されている。よって、この金原某の邪説についても、これらの積み重ねによって十分に破折できるのである。
本稿は、こうした立場から、金原某の邪説に対し論駁(ろんばく)を加えていく。
 これに対し、あくまでも「大御本尊の鑑定をするべきだ」との主張に固執する者は、無理難題の無い物ねだりをすることにより、「大石寺が鑑定に応じないのは大御本尊が偽物だからだ」との一点突破をしよう、という下心があるのであろう。
 我々は、そうした謗法者の邪心に騙(だま)されぬよう用心をしながら、大御本尊に対する疑難を破折していかなくてはならない。

本懐成就は大御本尊以外になし
いかに疑難しても「風の前の塵」

A弘安二年の出世本懐は大御本尊以外にありえない
 金原某の悪書『日蓮と本尊伝承』(以下、単に悪書と称す)は、弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊を後世の造立≠ニした場合、どうしても説明のつかなくなる弘安二年十月の出世の本懐成就≠ノついて、巻末で次のごとき珍説を述べ、お茶を濁している。
 「弘安二年十月一日の『聖人御難事』に『余は二十七年なり』として示された『出世の本懐』成就について、私見を記しておきたい。(中略)宗祖自身が『教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候いけるぞ』と明言しているように、本懐成就はあくまで衆生が的となっている。(中略)日蓮大聖人にとって、熱原法難において示された農民信徒の自立した不退の信仰と、それを導いた日興上人の、師を体現したるが如き弘通の姿は、正しく未来流通への一実証であり、御自身幾多の受難克服をもって示された大聖人の御化導における一つの成就であったと言えるのではないか。(中略)二十七年に及ぶ日蓮大聖人の弛まざる闘争と、その延長線上に興起した熱原法難における門下の自立した信仰を一つの結実として、『余は二十七年なり』と発せられた」云々。
 出世の本懐を、仏が真実の教法を開顕したことではなく、「衆生が的」だというあたり、衆生の機に偏重した学会の路線(たとえば、御本尊は何でもよい、信心さえあれば功徳がある、というような)が露骨に顕われている、といってよい。
 そこで、以下に、出世の本懐に関する大聖人の御金言を挙げ、その御意を拝していくことにする。
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ」(御書一一七四頁)
 これは、学会が好き好んで引き、また悪書でも引く御金言であるが、文の意とするところは、釈尊の出世の本懐は人の振る舞い――すなわち、人生をいかに生くべきか、その根本を明かすことにあった、というものである。
 それは、いうまでもなく、成仏という最高の人生を生きていくための法――法華経を指して、かく述べられているのである。ゆえに、
 「四十余年に所被の機縁を調(ととの)へて、後八箇年に至って出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり」(御書三八七頁)
 「今経は出世の本懐、一切衆生皆成仏道の根元」(御書八九二頁)
等と仰せられ、最後八年間で説かれた法華経こそが釈尊の出世の本懐であり、一切衆生を成仏せしめる根本である、と示されているのである。
 つまり、釈尊の出世の本懐は、衆生の側が何かをすることではなく、釈尊が衆生成仏の法たる法華経を開顕したことだったのである。
 そして次に、大聖人御自身の出世の本懐については、
 「あまりにありがたく候へば宝塔(※ここでは曼荼羅御本尊の御事)をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」(御書七九三頁)
と仰せられ、大聖人が文永年間から顕わされている曼荼羅(まんだら)御本尊をもって、大聖人の「出世の本懐」とされている。
 したがって、広くは、大聖人が文永・建治・弘安年間に顕わされた数多(あまた)の御本尊が大聖人の出世の本懐であるが、さらに大聖人は、弘安二年十月一日御筆の『聖人御難事』において、
 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」 (御書一三九六頁)
と仰せられて、立宗より二十七年目にあたる今こそ出世の本懐を遂げるのである、と宣言あそばされている。
 大聖人出世の本懐が御本尊であることは前述のとおりであるから、この「余は二十七年なり」との文意の指し示すところ、数多の御本尊の中でも、その中心にあたる、本懐中の本懐ともいうべき御本尊が、弘安二年十月付近に御図顕あそばされていることは明らかである。
 しかして、弘安二年十月付近に顕わされた御本尊を捜してみると、まさに、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊以外に、本懐に相応(ふさわ)しい御本尊はありえない。ゆえに二十六世日寛上人も
 「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」
 (文段集一九七頁)
と断ぜられているのである。
 もし、金原某がこれを否定したいのなら、大御本尊以外に、出世の本懐にあたる弘安二年十月付近の御本尊を提示できなくてはならない。
 だが、そのような御本尊はどこにも実在していないし、かつて実在したという記録も皆無であるから、提示することは絶対に不可能である。また金原自身も、そのことをよく解(わか)っているからこそ、巻末でさりげなく、出世の本懐を「熱原法難における門下の自立した不退の信仰」である等という珍説を述べ、お茶を濁したのであろう。
 ともあれ、大聖人御自身が弘安二年十月に出世の本懐成就を宣言された御金言があり、また、本門戒壇大御本尊以外にそれにあたる御本尊がない、という事実は決定的である。
 この一点を扨(さて)置いて、いかに、さまざまな憶測による疑難を加えてきても、それはまさに
 「風の前の塵(ちり)」(御書五七二頁)
のごとき妄説にすぎない、と知るべきであろう。 (以下次号)