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2007年10月04日

悪書『日蓮と本尊伝承』の謀りを破すA

戒壇大御本尊の書体批判の謀り
「河辺メモ」の懲りない悪用を糾す

書体批判した悪書のゴマカシ
板御本尊の運筆判定は不適当
B書体批判の謀りについて

 日蓮大聖人は、文永・建治・弘安年間に数多の曼荼羅(まんだら)本尊を顕(あら)わされているが、その時期によって御本尊の相貌(そうみょう)や書体に変化が拝される。
 その深意については我々凡夫の思慮できることではないが、金原某の悪書は、その点に目をつけて、次のごとく述べる。
 「文字曼荼羅研究の先駆者である立正安国会の山中喜八が指摘するように、宗祖直筆の文字曼荼羅の書体の特徴と図顕時期との関係は、特に中央首題の『経』字に於いて顕著に見ることができる。これについて山中は、現存する宗祖文字曼荼羅の全体を、その『経』字書体によって四期に分類し、
 第一期 文永八年十月〜建治二年八月
 第二期 建治三年二月〜建治三年十一月
 第三期 弘安元年三月〜弘安三年三月
 第四期 弘安三年三月〜弘安五年六月
としている。(略)この山中喜八の分類に従えば、『弘安二年十月』は本来、第三期に属するはずである。ところが、問題の『経』の字を比較してみると、一見して明らかなように、大石寺板曼荼羅(※戒壇大御本尊のこと)のそれは第四期に属するもので、すなわち弘安三年以降の特徴を示している。(略)この点における『例外』は存在していない。(略)大石寺板曼荼羅の書体は弘安三年三月以降に初めて見られる書体なのである」
と。つまり、大御本尊の中央首題の「経」の御文字の特徴は、弘安二年十月期(第三期)のものではなく弘安三年三月以降(第四期)のものだ、というのである。
 悪書は、このような説明と共に、第一期から第四期までの御本尊、及び戒壇大御本尊(であるとする写真)の「経」の御文字部分を、合計五枚の写真で対比しており、これだけを見れば、なるほど、大御本尊の書体は弘安三年三月以降の第四期に属するかのように、思い込まされてしまう内容となっている。
 しかしながら、大御本尊と類似した「経」の御文字は、じつは、弘安元年八月に顕わされた二体の御本尊にも拝されるのである。
 金原は、その事実を悪書の本文中には全く書かず、姑息(こそく)にも、巻末の「注」の中に小文字で述べている(こうしておけば、一般読者の多くはこれを読み飛ばすし、万一、指摘されても言い逃がれができる、と思ったのであろう)。
 しかも、そこで金原某は、この弘安元年八月の二体の御本尊の書体が、「特例」「異例」であるなどと言う一方で(そもそも本文では「例外は存在していない」と断言していたはずだが!?)、なおも、大御本尊の「経」の御文字の筆運びが「折り返した形で運筆される」「弘安三年三月以降の筆法」であるから、弘安二年十月の書体ではない、との難癖(なんくせ)を付けている。
 だが、あまり知ったふうなことは言わぬがよい。
 周知のとおり、戒壇の大御本尊は御板に彫刻された御本尊である。こうした、板に彫刻された御本尊の場合、「折り返した形」等々といった筆運びを鑑定することは、ほとんど難しいのであって、悪書も名を挙げている「文字曼荼羅研究の先駆者である立正安国会の山中喜八」ですら、
 「墨跡(ぼくせき)を見なくては確信のもてる返事はできない」
と述べている程である。
 すなわち、金原某が知ったか振りで述べている鑑定もどきの言は、その道の第一人者ですら言えない、はったりなのである。
 ともあれ、時代による御本尊の書体の変化には、大まかな傾向ではあるけれども、例外もあって決定的ではない。しかるを、最初に結論ありきで恣意(しい)的な書体批判を展開した金原某の悪書は、信ずる価値なき謀(たばか)りである、と言わざるをえないのである。

「メモ」が指すのは後の正信会僧
何度繰り返しても事実は覆らず
C「河辺メモ」について

 悪書は、故・河辺慈篤尊師の書いたとされる「河辺メモ」を悪用し、自身の邪説を正当化しようとしている。
 そこで、まず「河辺メモ」について説明しておきたい。
「河辺メモ」とは次のようなものである。
「S53・2・7、A面談・帝国H
 一、戒壇之御本尊之件
 戒壇の御本尊のは偽物である
 種々方法の筆跡鑑定の結果解った(字画判定)
 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ
 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
(中 略)
 ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
 誰かが売りに出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安三年の御本尊)」
 学会側は文中の「A」とは当時・教学部長であった阿部日顕上人のことである、として、日顕上人が昭和五十三年当時、大御本尊を「偽物」と断じていた、と大宣伝してきた。
 だが、これは所詮、メモという性質が問題である。
 この「河辺メモ」を一読してもわかるように、メモというものは自分の覚えとして書き留めるものであるから、主語・述語・背景・状況などが省(はぶ)かれており、第三者が易々(やすやす)とその内容を解読できるものではない。そして事実、学会側はこのメモを誤読しているのである。
 当事者である河辺尊師は、これについて、
 「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について(※日顕上人とお話する中で)、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折を伺(うかが)ったもの」
と、メモを残した当時の状況を述べられた。
 そして、この河辺尊師の説明が当時の状況と合致する、確かなものであることを、本紙『慧妙』(平成十四年六月一日号)が証明したのである。これによって、昭和五十三年当時、大御本尊を「偽物」とする疑難は、日顕上人ではなく、後に正信会となる一部僧侶が口にしていたことが明らかとなった。
 ところが金原某の悪書は、こうした事実を全く知らぬ顔で、
 「宗門中枢より本格的な板本尊批判が登場した。談話メモとはいえ、内容はかなり具体的で、しかも主張するところはすこぶる断定的である」
などと述べ、相変わらず、日顕上人が大御本尊を否定して「偽物」と断じたことにしてしまっている。そして、これを最初の足がかりとして、大御本尊と日禅授与御本尊の比較へ入っていくのである。
 要するに金原某は、大御本尊への疑難は日顕上人も述べられているものであるとして、さも、それらしく権威付けをするために、河辺メモを使った、というわけである。
 全く恣意的であり、この河辺メモを利用した諜りはすでに崩れている。重ねて言うが、大御本尊への疑難は、日顕上人ではなく、現正信会の一部が口にしていたのだ。
 いくら繰り返し言い続けても、雪は墨にならない、と知るべきであろう。

出処不明の写真では問題外!
悪書の骨子は単なる虚仮威し
D大御本尊と日禅授与御本尊について

 悪書は、何処からか持ち出してきた、大石寺所蔵の弘安三年五月九日御筆・日禅授与御本尊の写真(これまで公開されていた日蓮宗北山本門寺所蔵の日禅授与本尊の写真ではない)なるものと、これまで世に出ていなかった戒壇大御本尊の隠し撮り写真らしきものを比較して、首題の寸法が同じだの、酷似(こくじ)しているだのと、得々として評している。
 じつに、これこそが悪書の骨子ともいうべき内容といえよう。
 だが、このような比較には、真面目に真実を究明しようとしていく上では、何の意味もない。
 そもそも、大石寺が認めてもいない写真で、しかも、いつ誰が、どうやって撮ったかも言えない出処不明の写真では、「これが大御本尊だ」「これが日禅授与御本尊だ」と言われたところで、白とも黒とも言いようがないし、反論のしようもない。
 ちなみに、今日のCG(コンピューターグラフィックス)の技術からすれば、この程度の写真を作ることは十分可能であり、だからこそ、公式に大石寺の認める写真でなければ、比較する意味がないのである(※大石寺が、一切の御本尊について写真鑑定を許していないことは、前回すでに述べたとおり)。
 要するに、金原の悪書は、単なるこけおどしの域を出ていないのであって、これに乗って具体的議論に入ることは、まさに狂人走って不狂人走るの謗(そし)りを免れぬであろう。
 なお、その上で一言しておけば、仮に両御本尊の主題が酷似していたとしても、余の可能性もある。すなわち、前回Aですでに述べたように、戒壇大御本尊は弘安二年十月御図顕の、大聖人出世の本懐たる御本尊である。一方、日禅授与の御本尊は弘安三年五月の御認めである。推するは畏(おそ)れ多いが、この前提に立つならば、大聖人が何らかの深慮によって、すでに御図顕されていた大御本尊の首題を模して、日禅授与の御本尊を顕わされた可能性もある、と拝せられるであろう。

日向も宗祖を真似て板本尊造立
彫刻≠ノついての疑難に理由なし
E板御本尊という態様について

 金原某の悪書は、板御本尊という態様について、次のような疑いを構えている。
「表面に施された塗漆・金箔についてあらためて考えてみると、全く宗祖らしからぬ作為的、装飾的表現である。(中略)たとえ何らかの意図をもって特別な御本尊を残されたとしても、『日蓮がたましいひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ』との聖語からすれば、それが紙墨(しぼく)であっても何ら不都合はないはずである」
と。
 ところで悪書は、この後において、
 「本寺においてその前例がなくして彫刻・塗箔の板本尊造立を末寺がなし得るだろうか」
等といっているが、その道理の上からすると、次のような事実はどう理解するのであろうか。
 すなわち、五老の一人・民部日向は、日興上人の身延離山後の正安二年十二月、自ら大聖人の紙幅御本尊を模写して、板本尊を造立している。(『身延山文書』日蓮宗宗学全書二十二巻)
 いかに大聖人の法義に暗い五老でも、いちおう大聖人の直弟である以上、大聖人のなさった前例がなくして、自らまったくの新義を作り出すことはありえない。したがって、これは、身延山久遠寺の本堂に安置された本門戒壇大御本尊を拝していた日向が、大御本尊を真似(まね)て板本尊造立に及んだ、と考えるほかはないのである。
 もし、そうでない、と言うのなら、これ以外の、さらに合理的な説明を示すべきであろう。
 この、日向造立の板本尊は、それから五十年以上も、身延山久遠寺の本堂の本尊として安置し続けられたことが、記録(『一期所修善根記録』日蓮宗宗学全書一巻)により明らかである。
 金原某は、この事実について、どう説明するというのか。
 次に、「塗漆・金箔は宗祖らしからぬ」「すみにそめながしての聖語」云々というのは、文字曼荼羅の意義が全く判っていない、きわめて情緒的に片寄った妄説である。
 そもそも、日蓮大聖人が
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(御書六八五頁)
と仰せられているのは、何も「墨」の中に大聖人の「魂」が入っている、との意ではなく、文字によって大聖人の御悟りを顕わす、の意に他ならない。それは、
 「文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり」(御書三六頁)
とも仰せのように、色法たる文字をもって、仏の悟り・心法を顕わせば、それが仏の色心不二の当体となる、との法理によっているのである。また、
 「色心不二なるを一極(ごく)と云ふなり」
   (御書一七一九頁)
との御示しもあるが、要するに大曼荼羅御本尊は、日蓮大聖人の心法を、色法の文字をもって顕わされた、色心不二・一極の当体である、というところが大事なのである。
 されば、彫刻であろうと紙墨であろうと、御文字をもって顕わされた御本尊の意義には、いささかの異なりもない。
 このような法理も解らぬ輩(やから)が「すみにそめながしての聖語」などと、知ったかぶるものではない。
 つまり、金原某のいう、板御本尊という態様についての疑難は、全く理由がないのである。
 (以下次号)