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2007年10月17日

悪書『日蓮と本尊伝承』の謀りを破すB

考古学者を気取る著者
その説は稚拙で恣意的

身延庵室の広さに対する疑難
百余名が修行できた身延庵室!

F身延の庵室に大御本尊は安置できなかった!?

 金原某の悪書は、
 「弘安二年十月の身延山に、かかる巨大な板本尊を安置し得る環境があったであろうか。(中略)御書によれば、身延の庵室が造られたのは、文永十一年の六月で、この建物は三間四面、高さ七尺の小さなものであった」
などという。要するに金原某は、弘安二年当時の身延の庵室について、広さは三間四面(※一間は今日の単位では約一b八十二a。畳の長い方と同じ)であるから、わずか十八畳、高さは七尺(※一尺は今日の単位では約三十a)であるから二メートル強であると考え、そのような手狭な庵室に大御本尊を安置できたはずがない、というのである。
 以前より考古学者気取りの金原某は、このような説を得々と述べているが、まったくの勉強不足、素人丸出しの妄説といわざるをえない。
 何故ならば、当時の一間とは柱と柱の間を示す表現であって、今日の長さの単位(約一b八十二a)を指すものとはいえないからである。その証拠に、日蓮大聖人は弘安二年八月の御手紙に
 「今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義し候ぞ」(御書一三八六頁)
と仰せられている。もし金原某のいうように、身延の庵室がわずか十八畳の広さしかなかったのであれば、とても百余人の御弟子を住まわせて修行させる、などということができようはずがない。
 逆にいうならば、当時の身延の庵室には、百余人の御弟子を居住せしめることが可能な広さがあり、したがって大御本尊安置に必要な広さも十二分にあった、といえるのである。

熱原法難当時の様子に関する疑難
それでも御聖筆での御図顕はできた!


G史実から見て弘安二年十月当時に大御本尊建立は無理!?

 悪書は、弘安二年十月当時の門家の状況を縷々(るる)説明した後、
 「(※当時は熱原法難への対処に追われていたので)このような差し迫(せま)った慌(あわただ)しい状況下で、楠木の巨大な料板を用意し、彫刻せしめ、漆(うるし)を塗り、塗箔がなされたと想像するのはかなり無理な話である。史実もまた、戒壇本尊の在世における存在を否定している」
などと述べている。
 だが、このような自分の勝手な妄想を自ら破してみせても、何の意味もない。何故ならば、「弘安二年十月十二日」というのは、当然のことながら、御聖筆をもっての大御本尊御図顕の日であって、彫刻や塗箔のなされた日ではないからである。この点を指摘しておけば十分に事足りるであろう。

興尊の身延入山時期に関する疑難
弘安五年十月からの在山は明らか!


H身延山久遠寺は弘安七年末まで無住!?

悪書は、日興上人が身延山久遠寺第二代たることを否定し、弘安七年十月まで身延は無住であった、そこに大御本尊のみが在(あ)ったはずはない、と論難しようとする。
 そのために、まず、
 「もし弘安二年十月以降、戒壇本尊が身延に安置され、この宗宝が日興に親付されたのであれば、宗祖滅後当初より日興は身延に常住されたはずで、果たしてこのような墓番制度が必要であったろうか」
などという疑いを呈しているのだが、まったくもって思慮(しりょ)が足らない、としか言いようがない。

墓所輪番制の目的とは!?

 そもそも、日興上人を除く五老僧は、大聖人御入滅後わずか一年も経たぬうちに、大聖人の御廟(ごびょう)のある身延山久遠寺から離れ、本師を捨てた格好となっているが、このような五老の信仰の不確かさを、大聖人が御気付きにならなかったはずはなかろう。
 地頭・波木井実長の信仰の惰弱(だじゃく)さに関し、予め「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(聖典五五五頁)との御遺言を示された大聖人である、御入滅後に本弟子の五老が離散していくやもしれぬことに対し、備えを御用意なさることは当然である。
 そして、それこそが「六人香花当番」(御書一八六六頁)という、墓所輪番の御遺言であったものと拝されるのである。
 つまり、本師大聖人の御墓所を輪番する、という定めによって、五老の信仰をつなぎとめておく御配慮だったのであり、このことと、日興上人が身延山久遠寺の第二代別当として常住されることとは、矛盾(むじゅん)のない全くの別問題である。

日興上人身延入山は弘安五年

 さらに悪書は、弘安八年一月四日に、波木井実長が鎌倉の地から日興上人にお送りした書状の中で
 「御わたり候事こしやう人の御わたり候とこそ思まいらせ候へ(日興上人が身延にましますことは、故聖人がましますように感じられます)」
との感激が述べられていることを根拠に、これは日興上人の身延入山に対する喜びを伝える波木井の書状である、として
 「(これが)弘安八年正月の状であれば、日興の身延常住決定はその前、弘安七年末頃ということになる」
と決めつけている。
 だが日興上人は、弘安五年十月二十五日、日蓮大聖人の御灰骨と共に身延に帰山あそばされ、以来、身延山久遠寺の第二代別当として在住せられたのである。
 その証拠に、同年十二月十一日、鎌倉にいた波木井実長より身延の日興上人へと奉(たてまつ)った、次のような書状が存する。
 「まことに御経を聴聞つかまつり候も、聖人の御事はさる御事にて候。それにわたらせ給候御ゆえとこそ偏へに存じ候へ。よろづ見参にいり候て申べく候。
恐々謹言
   十二月十一日
源 実長」
 よって、金原某が挙(あ)げた弘安八年一月四日の書状は、波木井が日興上人の身延在山を以前と変わりなく喜んだ内容であって、そのとき初めて在住せられるようになった、との理解は誤りである。

輪番するのは寺でなく墓所

 ところで、ここで墓所輪番制度について少し説明しておくが、それは前にも述べたとおり、大聖人が
 「六人香花当番」(御書一八六六頁)
と仰せられた御遺言によるものであり、本弟子の六人(六老僧)を中心とする十八人の弟子で、御廟所を一ヶ月ずつ輪番する、という内容であった。
 弘安六年一月、日興上人は、集まった老僧(日昭・日朗・日持)と共に、この輪番を制定し、後のために『墓所守る可(べ)き番帳の事』として記録されたのである(日興上人の御正筆が西山本門寺に現存)。
 しかるに、金原某の悪書は、
 「単に墓の管理に留まらず、『墓所寺』すなわち身延山の管理をも意味していたと考えられ、六老の誰一人として常住の別当職を任じられた者はなかったはずである」
などと強弁し、この輪番制度を墓所の寺を輪番する≠ニ読み変えてしまっている。だが、大聖人御遺言の「六人香花当番」とは明らかに墓所の輪番を指しているし、そもそも身延山久遠寺の住職を一ヶ月ずつ輪番するかのごとき、珍妙な制度のあろうはずがない。

日興上人の一門が墓所を守護

 次に、悪書は、弘安七年十月の日興上人の『美作房御返事』に、
 「身延の沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かせきの蹄(ひづめ)に親(まのあた)り懸らせ給い候事目も当てられぬ事に候」(聖典五五五頁)
と仰せられているのを根拠に、
 「この秋に身延御墓の有り様を目の当たりにした日興が(略)そのまま在山した」
等、日興上人の入山は弘安七年末以降における成り行き上の措置、とするが、これも、まったく道理を弁(わきま)えない杜撰(ずさん)な推量である。
 まず、「身延の沢の御墓の荒れはて候いて」云々の文から、実際に大聖人の墓所が目も当てられぬほど荒廃(こうはい)していた、などと考える方がどうかしている。
 そもそも、墓所を輪番する十八人のうち十人までが、甲斐・駿河地域在住の、日興上人とその直弟子・孫弟子である。そして、墓所の輪番給仕を怠(おこた)るようになったのは、日興上人御一門を除く五老僧等の番衆である。
 老僧方が輪番給仕を怠っていることを嘆(なげ)き、その不知恩を責める日興上人が、老僧等の番衆が登山してこないのが悪いとばかりに、自分達も先師の御墓を放置して、目も当てられぬほど荒廃させる、などということがあろうか。
 ましてや、身延山付近には、日興上人の教化された地頭・波木井一族も住んでいるのに、五老僧等の怠慢(たいまん)によって御墓が荒れ果てていくのを誰も気付かず、日興上人が久し振りに登山して判った、などという馬鹿げたことが、あろうはずがない。
 実際は、身延に常住しておられた日興上人と、その弟子方によって、大聖人の墓所の香華給仕は怠りなく行なわれていたのである。
 その上で、前の『美作房御返事』の文は、老僧方の不知恩を責め、美作房にも、強く報恩の念を喚起し、登山参詣を促された表現、と拝するべきが当然であろう。

金原説は実情無根の邪推

 以上のごとく、弘安五年十月以来、日興上人が第二祖として身延山に常住されたのは厳然たる事実であり、これを否定する根拠は存しない。
 むろん、日興上人は身延に常住とはいえ、一歩も山外へ出られなかったというわけではなく、大いに富士方面等へも弘教に赴(おもむ)かれたであろうが、大勢は身延在住であられた、という意味である。
 したがって、金原某の悪書が結論付けた
 「日興の身延入山在住は弘安七年秋以降である。しかも、その在住は状況に応じて決定されたことで、あらかじめ計画されていたことではない。よって、身延山に戒壇板本尊が存在したと考えるのは不自然であり、入山に至るまでの諸状況から見てもその存在は否定せざるを得ない」
などという説は、悉(ことごと)く実情を無視した、「史実」に反する邪難である。
(慧妙第355号より)