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2007年11月15日
悪書『日蓮と本尊伝承』の謀りを破すC
牽強付会が過ぎる御歴代遺文の解釈
全ては妄想・邪推の正当化のために
『日興跡条々事』草案に関する疑難
一読噴飯の珍説も飛び出す!
I「弘安二年に給わる所の大御本尊」!?
金原某の悪書は、
「大石寺では、日興述と伝わる『日興跡条々事』に記された『弘安二年大御本尊』が、当該板本尊(※戒壇大御本尊のこと)を指している、と主張している。(中略)『弘安二年大御本尊』には何か別の正しい解釈があるはずである」
とした上で、五十九世日亨上人が『日興跡条々事』について
「富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られるもの、正本案文共に総本山に厳存す」(富要集八巻十七頁)
と仰せられている「案文」、すなわち『跡条々事』の草案を挙げている。
そして、同草案の第二条に

とあるのに目を付け、
「ここで注意したいのは、問題の大御本尊に関する条項が、当初は
日興カ当身弘安貳年所給大本尊日興一期之後日目授与之
と記されていたことである。『弘安二年に給わる所の大本尊』であれば、『弘安二年』はあくまで所給の年であって、御本尊書顕の年を指すものではない。(中略)日興が弘安二年に給わった御本尊である限り、戒壇板本尊ではない、と考えるべきである」
というのである。
草案を本意とは言い難い!
だが、この草案に日興上人が削除や加筆を記される前の文が、金原某の言うような形の文としてでき上がっていたか、どうかは、まったく定かではない。何故ならば、金原某も自ら
「草案らしくやや粗雑な筆致で、随所に添削修正が施され、草稿を練られた様子がうかがえる。(中略)複雑な添削の状況」
と述べているように、この草案は、一旦綺麗(きれい)に仕上げられたものに後から添削を加えられた、というよりも、最初から草案(下書き)として、お書きになる途中で随時に削除や加筆をされながら、修正を施しつつ文を練っていかれたもの、と拝されるからである。
それを「当初は、こういう文として記されていた」と決めつけてみても、それは金原某の妄想でしかない。
また、一般に草案というものは、あくまでも文案を練っている途中の下書きであるから、筆者の真意ともいうべき「正本」が完成した後には、あえて用いたり拘泥(こうでい)すべきでないのが通例である。
したがって、『跡条々事』に記された日興上人の御正意は、あくまでも『跡条々事』の正本によって拝すべきが当然である。それを、わざわざ草案を探し出し、そこに自らの妄想を加えて、「弘安二年はあくまで給わった年であって、御本尊書顕の年ではない」などと結論付けるのは、文書を読み解く姿勢が誤っている、としか言いようがない。
さらに金原某の悪書は、この草案について
「たしかに添削の段階で、『所給』の二字が弘安二年の上に移されているが、これは当初、『弘安二年所給大本尊』と『弘安五年二月二十九日御下文(※この文は第四条として書かれた後、線で抹消されている)』と別記されたのを、後から『並弘安五年二月二十九日御下文』と一箇条にまとめるにあたって、『所給』の意を『大本尊』と『御下文』の双方に懸(か)けるために『日興当身』の下に移されたと見るべきであろう」
ともいう。
しかし、だとすれば、この文意は、日興上人が身に宛て給わったところの「弘安二年大本尊」と「弘安五年二月二十九日御下文」となって、弘安二年は大御本尊に懸かり、弘安五年二月二十九日は御下文に懸かることになる。
そして、この「御下文」というのが、大聖人の御代理で天奏をなさった日目上人に対し、弘安五年二月二十九日、後宇田天皇が下賜(かし)された下し文であることは富士門流の常識である(※この下し文は、重宝として守護されていたが、日目上人滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられる)から「弘安五年二月二十九日」という日付は「御下文」が認(したた)められた時期を指し、同じく「弘安二年」という年数は「大本尊」が御図顕された時期を指すことになってしまう。
邪智によるとんでもない珍説
これでは金原某の思惑とは正反対の結論となってしまうため、悪書はとんでもない珍説を構える。すなわち、
「この『御下文』は宗祖が日興に与えられた『法華証明抄』であると考えている。『法華証明抄』は弘安五年二月二十八日に認められ(中略)写本には、末尾に、日興による『弘安五年二月二十九日』との到来筆が記されており、『草案』に見える『日興所宛給弘安五年二月二十九日御下文』が、給わった日をもって示された『法華証明抄』を指したものであることは、ほぼ確定」
「内容は一面、南条殿の病気平癒(へいゆ)を目的としているが、同時に、『法華経の行者日蓮』の立場を極めて鮮明に打ち出すことをもって弟子日興に下したのである。(中略)上代において『法華証明抄』正本がいかに重要な扱いであったか」
等というのである。
そして、「御下文」が『法華証明抄』であれば、「弘安五年二月二十九日」は日興上人が同抄を大聖人から給わった時を示し、したがって「弘安二年」も日興上人が「大本尊」を大聖人から給わった時を示す、との結論を導くのである。
まさに一読噴飯(ふんぱん)の珍説だが、それにしても『法華証明抄』の写本に同書到来の日時として「弘安五年二月二十九日」とあるのを見つけ出し、これが「御下文」であると結び付けていく奸智(かんち)には恐れ入る。金原某一人の智恵によるものか、はたまた悪書の作成に関わった他の者の智恵によるものか、いずれにせよ、彼奴(きゃつ)等は「魔の眷属」となりきって、魔の智慧を発揮しているものと見える。
「御下文」は『法華証明抄』とは別物
さて、ここで取り上げられた『法華証明抄』であるが、この書は重病の南条時光殿へ与えられたもの(※当時は御弟子が御書を受け取られ、それを信徒に解説した)であり、特別な法門書ではない。
金原某の悪書は、「『法華経の行者日蓮』の立場を極めて鮮明に打ち出すことをもって」云々などと言うが、それなら、御自身が法華経の行者にして末法の主師親たることを明かされた『開目抄』や、御自身が霊山虚空会において相承を受けられた上行再誕たることを明示された『三大秘法抄』等の方が、当然に重要な法門書である。
また、「上代において『法華証明抄』正本がいかに重要な扱いであったか」などと言うなら、それほど重要な書を、どうして日興上人は五大部・十大部の中に選ばれなかったのか。
その法門上の内容からいっても、御書としての位置付けからいっても、日興上人が『法華証明抄』のみを取り挙げて、御遺言ともいうべき『跡条々事』にわざわざ記される意味などはどこにもない、というべきであろう。
したがって、「御下文」が『法華証明抄』であるなどというのは、全く議論の余地すらない、素人騙(だま)しの妄説である。
また、この妄説が成立しない以上、従前どおり、「御下文」は弘安五年二月二十九日に後宇田天皇が下賜された下し文と解するのが当然であり、同時に、草案に示された「弘安五年二月二十九日」及び「弘安二年」は、いずれも、それが記され顕わされた日付を示している、と拝すべきである。
『御伝土代』の読み方に関する疑難
笑うべき言い掛かりと邪推!
J『御伝土代』の読み方について
金原某の悪書は、第四世日道上人の『三師御伝土代』の一節
「熱原の法華宗二人は頸を切られおわんぬ、その時大聖人御感あって日興上人と御本尊に遊ばす」(富要集五巻八頁)
の読み方について疑難している。
その一つは、
「十月十二日には(※神四郎等の)斬首はされていない」
として、大聖人が神四郎等の斬首に御感あって大御本尊を建立なさるということは時系列上ありえない、との主張のようである。
熱原法難を機縁に大御本尊御図顕
そこで、まず、熱原地方で起こった法難についてであるが、これは何の前触れもなく突発的に起きたものではなく、熱原郷に法華衆が急増していくのを怨嫉(おんしつ)した謗法者達により、弘安二年四月頃から迫害が始まり、八月の法華衆徒・弥四郎の斬首を経て、九月二十一日の神四郎ら二十名の信徒拘引でピークに達したものである。
しかして、『聖人御難事』の執筆された十月一日は、まさに熱原法難の真っ只中の時期であった。
しかも、同御書に、
「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。彼等には、たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろしゝといわばたかにあへるきじ、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ」(御書一三九八頁)
と仰せられていることから判るように、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性はほとんどなく(よからんは不思議)、逆に、極刑に処せられることは間違いない(わるからんは一定)であろう、との見通しすらあったのである。
この時にあたって、出世の本懐を遂(と)げられるべき時機の到来を感ぜられた日蓮大聖人は、同御書に
「余は二十七年なり」(御書一三九六頁)
と宣言あそばされた。
そして、その十一日後に、本門戒壇の大御本尊を顕わされたのである。
これに対し、「神四郎等の斬首は十月十五日だから、これを機縁として十二日に本尊を建立する、などということはありえない」とする疑難は、まったく取るに足らない言い掛かりである。
すなわち大聖人は、門下僧俗の強い信心によって熱原大法難が起きたことに時機を感ぜられたのであり、ただ三人が斬首されたかどうか、という一点だけを御覧になっていたわけではあるまい。
また、斬首というなら、すでに八月には弥四郎が斬首されているし、十月一日の時点でも「わるからんは一定」すなわち極刑は確実、という状況が眼前にあった。
だが、こうした大法難の中にあっても、熱原の信徒達は、退転なく題目を唱え続けていたのであり、ここに、大聖人は時機を御感あって、十月十二日に大御本尊を建立あそばされたのである。
そして、その三日後の十五日に至り、拘引された二十名のうち三人が斬首されて、熱原の大法難は終息した。
金原の疑難は笑うべき言い掛かり
このことを後世、記述するときに、簡潔に「熱原で法難が起こり、法華衆三人が首を斬られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく自然のことであろう。また前出『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。
しかるを、「斬首は十月十五日だから、これを機縁に十月十二日の段階で本尊を建立することなどありえない」と言って、これに拘泥するのは、まったくためにする疑難、笑うべき言い掛かりである。
悪書がなしている、もう一つの疑難は、
「『素直に読めば、日興上人と御本尊にあそばす』とは、『日興上人≠ニ御本尊に認められた』と解釈するのが最も妥当な解釈である。すなわち、熱原法難における日興上人の奮闘を賞せられて、上人号をもって御本尊に記しおかれ」云々
「この時(『御伝土代』執筆の時)には、この『日興上人』と認められた御本尊が存在したのかもしれない」
等というものである。
だが、そのような説は、大聖人が「日興上人」と認められたという御本尊を提示してから言うべきであろう。そんな御本尊が存在したという事実も、記録も、何一つない上、大聖人の御書の中にも「日興上人」と認められたものはないのである。
ゆえに、全ては金原某の妄想・邪推(じゃすい)と言う外はない。(完)