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2007年12月05日
新・これが創価学会の正体だ(20)
第四章 目で見る創価学会の正体
「謗法厳戒」を捨てた学会
「謗法厳戒」といえば、日蓮大聖人が
「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しっぽんしんこ)』とは是なり」(御書一〇四〇頁)
と仰せになっているように、日蓮正宗の宗旨であり、これを犯す者は堕地獄必定(ひつじょう)であります。
もちろんこれは、大聖人直結≠口にする創価学会とて同じ信条を持っていたハズなのですが、日蓮正宗から破門されて以降の学会の在(あ)り方を見ると、「謗法厳戒」などどこ吹く風で、票≠稼ぐために邪宗の祭りへ参加するにとどまらず、周囲からの風当たりを弱めよう謗法払いをやめたり、果ては、謗法への布施になろうともお構(かま)いなしに金をバラ撒(ま)く、という乱脈ぶりです。
つまり、学会の利益≠フためになるなら謗法でも何でもあり、の状況なのです。
平成七年、当時会長であった秋谷栄之助は、
「地域の祭りといっても、現代社会においては、宗教的な意味合いは薄く、文化的、社会習俗であり、地域の親睦(しんぼく)という面が強くなっています。したがって、それに参加することが、必ずしも信仰としての意味をもつとは限りません。ゆえに、それが直ちに謗法になることはありません。(中略)信仰として参加するのでなければ、社会的、文化的行為であり、宗教的行為ではありませ
ん。したがって少しも謗法には当たりません」
「私どもの謗法厳戒の精神はいささかも変わりません。しかし、地域友好、地域貢献のために、祭りに参加することで、自分を責(せ)めたり、同志を非難することは行き過ぎです。もっと自由で、もっと大らかなのが大聖人の仏法である、と心得ていきたいと思うものであります」(『聖教新聞』平成七年八月七日付)
と指導しました。
すると、翌平成八年八月十八日に行なわれた江東区の深川祭り(深川不動尊の祭り)に、かつては黒豹≠ニあだ名された往年の折伏の闘士・黒柳明が参加。自ら率先して御輿(みこし)を担(かつ)いで練り歩いた挙げ句、テレビのインタビューに
「お祭りとか町会とか接触はしてますけど、お祭り重要、のべつまくなし≠ニいうのは、小選挙区の影響ですよ。これはもう、否定できません」
つまり、選挙に当選するためであれば、祭りの御輿でも何でも担ぐ≠ニ、平然と答えたのです。
学会はさらに堕(お)ちていきます。秋谷は、翌平成九年二月の本部幹部会の席上、
「『謗法払い』については、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝(おが)み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません」(『聖教新聞』平成九年二月十一日付)
と発表しました。つまり、学会の本尊は謗法物と同座≠ウせておいてもいっこうに構わない、というのです(もっとも学会版の本尊そのものが大謗法の魔神の札ですが)。もうこうなれば、「うるし千ばいに蟹の足一つ」どころではなく、蟹がギッシリ詰まった大樽に漆を注ぐ≠フ図です。
そして、学会は謗法への布施≠ウえ平気になりました。すなわち、平成十七年にオープンした「九州池田記念墓地公園」(大分県日田市)の開設に伴(ともな)い、地元住民に請(こ)われるままに創価学会が行なった百五十万円の寄付は、なんと、金比羅神社の参道整備のためのものであり、その結果、記念の銘板には、「特別寄付者」として「創価学会」の名前が刻まれたのです。
このように、現在の創価学会においては「謗法厳戒」の信条など遠い昔の遺物であり、目先の学会の利益のためには、謗法であろうが何であろうがお構いなし、というのが現状なのです。そして、このような学会に付き従う者は全て、謗法与同の罪を犯し、堕地獄の因を積んでいることは疑いありません。
(慧妙358号 平成19年12月1日号より)
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