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2008年06月06日
「続・あの頃」 「怨みを晴らす」が池田の行動原理
池田の心中には怨みが充満
平成三年十一月二十八日、日蓮正宗は、創価学会を破門に処されました。
あれからはや、十七年と六ヶ月が過ぎました。
平成三年に生まれた赤ん坊は、今では高校三年になっています。
私が、いわゆる第一次紛争≠フなか、「永遠の師」のはずであった池田大作に見切りをつけ、当時の御法主日達上人に随従(ずいじゅう)たてまつってそのお手伝いをさせていただく決意をしたのは、さらに十数年さかのぼって昭和五十二年のことであります。
その当時生まれた人は、三十歳を過ぎています。
人の出入りの激しい創価学会では、会員の七割くらいは、私が池田大作に対し、内部告発ののろしを上げたことや、その時の騒ぎは知りません。
多くの会員にとっては、遠い遠い昔の、歴史の一コマに過ぎないでしょう。
私も、できれば、そうなって、いつの間にか忘れ去られて、市井(しせい)の片隅で静かな余生を送りたい、と思っていました。
ところが、いまだに『聖教新聞』では、毎週のように私を「魔王」として憎々しげに書いてくれますし、創価学会関係の訴訟を十四件も抱(かか)えて、毎週のように裁判所に通い、そして、私の家のすぐ側には「見張り所」があって、青年部員が四六時中私を家を見張り、出かけるたびに尾行してくる、という状況が続いています。
さまざまな嫌がらせが絶えません。
池田大作にとっての私は、池田の醜怪(しゅうかい)な実像と邪(よこしま)な野望を世間に晒(さら)し、国民一人一人の脳裏(のうり)に刻みつけ、「天下盗り」の夢や「ノーベル賞」への道を閉ざしてしまった、何度殺しても飽き足らない、憎き仇(かたき)なのでしょう。
同じように、竹入義勝氏や矢野絢也氏は、
「俺が代議士にしてやったのに、その恩義も忘れて出て行き、生意気にも、俺や学会を批判する小癪(こしゃく)なやつ」
であって、許せない、というわけでしょう。
そして、誰よりも、第六十七世御法主日顕上人は、日蓮大聖人の再誕≠スらんとした池田大作の野望を真っ向から打ち砕き、「池田こそ大聖人と御本尊を冒涜(ぼうとく)する大謗法者」と断定され、鉄槌(てっつい)を下されたお方ですから、いつまでも逆恨(さかうら)みの対象とし続けるのです。
何しろ、昭和三十五年からすでに五十年近くにわたる間、世間では十数人も総理大臣が替わったというのに、池田大作は創価学会の支配者として君臨(くんりん)し続けているのです。
その間、創価学会でも、四代会長・北條浩氏は死去し、五代会長・秋谷栄之助氏は引きずり下ろされて蟄居(ちっきょ)中、そして、六代会長に原田稔氏が就任し、公明党委員長の方も、竹入・矢野・石田幸四郎・神崎武法・太田昭宏と、五代替わっています。池田大作一人が居座って、あとは総取り換え≠ニいう状態です。
池田大作にとっては、十七年前の屈辱(くつじょく)も、三十年前の怨(うら)みも、今日のことも、同じレベルの関心事ですから、未だに整理がつかず、「裏切り者を許すな」「仇を討て」との命令を発し続けているのです。
慚愧に堪えない「山ア・八尋報告書」
ところで、私は、日蓮正宗から創価学会に送り付けられた「破門通告書」の中にも、名前が載(の)りました。それも、池田大作の忠実な側近であった頃に書いた「報告書」が、池田大作の邪心≠証明するものとして、はなはだ慚愧(ざんき)に堪(た)えない形で、後世に名を残してしまいました。
すなわち、同「通告書」の「第五・創価学会の宗門に対する背信」という項目には、次のように記載されています。
「創価学会の昭和五十二年路線における逸脱(いつだつ)・背反(はいはん)の根底にあったものは、池田氏への報告書として記された、『山崎・八尋文書』『北条文書』等の学会内部文書に明らかであります。すなわち、昭和四十九年四月十二日付の『山崎・八尋文書』には、
『本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。
しかし、私の考えでは、本山・正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線ですすむしかないように思われます。そのための布石としては、
(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配
(2)財政面の支配(学会依存度を高める)
(3)渉外面の支配
(4)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)
(5)墓地、典礼の執行権の移譲
(6)総代による末寺支配
が必要です。
これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり、今回のとこは、(1)、(2)、(3)、を確立し更(さら)に(4)まで確立できるチャンスではあります。
いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思いますので、ご裁断をあおぐ次第です。』
と、創価学会首脳が、宗門支配という恐るべき陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てていたことが、明記されているのであります。さらに、昭和四十九年六月十八日付の『北条文書』には、『宗門の件』として、
『長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。(中略)やる時がきたら、徹底的に斗(たたか)いたいと思います。』
と、宗門から独立せんとする謀計が記されております(※筆者註。この報告書は、『国際センター』により日蓮正宗を支配下に置こうとした池田大作の指示により、私と北條浩氏が日達上人にお目通りし、これを受け容れるよう説得を試みた際、日達上人から厳しくはねつけられたことを逆恨みして、北條氏が池田大作あてに提出したものです)。
これらの学会内部文書から判(わか)るように、要するに創価学会では、当時『学会が主、宗門が従』という傲慢(ごうまん)な考えから、実際に宗門を公明党や創価大学などと同様の外郭団体として、創価学会の支配下に置くか、それができなければ日蓮正宗から独立しようという、謀略(ぼうりゃく)を廻(めぐ)らしていたのであります。」
少し引用が長くなりましたが、この「山ア・八尋報告書」というのは、私が主に内容を考え、当時私の部下ともいうべき立場にあった、八尋頼雄氏(現副会長、本部事務局長、池田大作秘書等、枢要〈すうよう〉な地位にあり、私が法学委員会で育成した弁護士です)に整理させ、書かせたものです。筆跡は八尋氏の直筆です。
ちょうど池田大作の訪中期間中に書いたものですが、中国へ出発する前に池田は、当時、宗門問題については学会内で一番のエキスパートとなっていた私に、
「帰るまでに、宗門対策の現状と今後の方針についてまとめておけ。帰ったらすぐに、皆に指示して具体化していく」
と命じ、私は池田大作の意を汲(く)んで、現状と今後の方針について報告書の形式にまとめたのです。
そして、八尋氏に内容を確認させ、具体的な事案について、必要な修正を加えてもらい、清書してもらったのです。
宗門併呑の悪計は昭和47年から
昭和四十七年十月、「妙信講」の介入によって、きわめて不本意な形で正本堂落慶を迎えざるを得なかった池田大作は、直後から、捲土重来(けんどじゅうらい)を図(はか)って、さまざまな謀略と画策に取りかかりました。その一つは、日達上人に圧力をかけて、
「正本堂が大聖人御遺命の戒壇堂である」
というお墨付きを無理やり得ることでした。
それにより池田は、
「自分は、三大秘法のうち大聖人もなされなかった本門事の戒壇建立∞広宣流布≠成し遂げた、仏法史上画期的な存在である」
との主張を打ち立て、「池田本仏論」の根拠にしようと企(たくら)んだのです。
しかし、日達上人は頑としてこれに応じられず、それに憤(いきどお)った池田大作は、昭和四十八年に入る頃から日達上人にさまざまな攻撃を仕掛けながら、
「こうなればもはや、宗門を学会の支配下に収めて、思うがままに動かす体制を作るしかない」
と腹を決め、この報告書のとおりに行動し、既定方針に添(そ)って、宗門を
「最も存在価値のある外郭」
にしようと、行動を開始したのです。その一方で池田大作は、万が一、宗門支配に失敗したら、その時は、創価学会を「在家教団」として独立させる腹を固めました。そして、両様の構えをとって、準備を整えながら、露骨(ろこつ)に宗門に圧力を加えていったのです。
これが、その後の宗門と創価学会の紛争の原因であります。
私の手元には、これを裏付ける当時の極秘資料がたくさん残っています。
以下、この点に焦点を当てて、事実を回顧(かいこ)していきます。(つづく)
『慧妙』 平成20年6月1日号・第370号より転載