Web法論を読んだ感想 ―私はこうジャッジする―

→法華講員と日蓮宗住職の法論のページはこちら

 

(以下 敬称略)
「大埜氏は素直さがなく嘘つきだ」
■正説寺住職 佐藤道幸

 
  まず、大埜氏は、1番始めの質問で有師と因師の御言葉を誤読および誤解した。
それを指摘されて、初歩的な誤りを素直に認められず、本題から「それるように・それるように」と、いろいろなことを言い足して論を拡大し、ごまかしている。
 「関連質問だ」と言って論点をずらしたかったようだが、こちらは「後で全てについて答えてあげるから、1つずつ決着をつけていこう」と言っているのに、それはワザと無視。
 意味不明の文章が多い。にも拘らず、「日本語ですよ」などと言って、まるでこちらが逃げているかのように読める言い方をしていて狡い。「日本語ですよ」と言うけれど、日本語が変なのは自分の方である。
 また、宗祖の御事跡の全てが御書にあるとは限らない。 戒壇の大御本尊の御事など、内証深秘の相伝に決まっている。 すぐに「御書を出せ」とか言うのは学会と同じ。御本尊の脇書の仏滅讃文を云々しているが、それ以前に、自分が仏像ばかり拝んでいることの方が問題だ。
 日達上人への誹謗も、誤読の産物に過ぎない。日達上人が安永をデタラメとされているのは、讃文の位置のことを仰せなのは明らか。
 指摘されて、さすがに自分でも気づいたはず。でもやはり素直に認めない。
 また、自分がつけた難癖の内容を忘れて次を書いているのでは?と思うことが多々あった。
 結局、大埜氏はいろいろ言うけれど、要は御戒壇様と唯授一人血脈相承への誹謗をしたくてしょうがない。身延衆の積年の罪障でしょう!
 大石寺が正しいと思ったら帰伏するとか言っているけれど、そんなつもりが無いからこそ言っている。嘘つきだ。
 今回の記録を読んで、こんな感想を持ちました

 

「大埜慈誠氏はまともな法論のできぬ人物」
■福生寺住職 菅原信稔


  まず、メールでのやり取りとはいえ、妙観講員が破邪顕正の思いをもって、日蓮宗の迷妄を破して教導されようとする尊い熱意を感じました。
 メール文書での往復の性質上、特に法論のやり取りの相手によっては、論旨が拡散されて曖昧化したり、相手方の一方的な思い込みから、当方の供述への誤解や邪心による曲解などと、支離滅裂な疑難に発展する難しさも孕んでいます。
 殊に、今回のような内容に関しては、文書での説明や主張はできても、議論を経ての説得というのは難しい。加えて、相手方が真摯な姿勢でなければ…残念ながら膠着状態に陥ることも少なくないと痛感します。
 そのような中で、その都度、大埜氏に対して、根気強く軌道修正を試みながら、真っ当な議論をされようと努められたことにも、誠実な折伏の姿勢を感じました。

 
  また反対に、今回の大埜氏の不誠実な返信文書を読み進める上では、随所に、
「諸宗は本尊にまどえり」(『開目抄』)
「相伝に有らざれば知り難し」(『一代聖教大意』)
「有解無信の者を皆悪道に堕すべし」(『法華題目抄』)
「偽書を造って御書と号し」(『日興遺誡置文』)
といった宗開両祖の御制誡が頭をよぎりました。

 具体的には、【メール十・法華講員からの総括】(平成二十九年十月五日送信)にもまとめてくださっていた
「まともな法論などできない人間であること」のポイント

①自説の誤りが明らかになっても絶対に認めずに誤魔化してしまう
②自らの思い込みが強く、絶対に相手の言っていることを理解しようとしない
③自説の誤りが露呈したらスリカエによって批判をかわす
④自らの誤りに頬かむりすべく、強ちに悪口誹謗を重ねる
⑤非学匠は理に詰まらず
との点に括って、貴職がまともな法論のできない人物であること

の【総括】に同意いたします。

 さらに「おわりに」に記されておりましたように
「大埜氏には、率直にこれらの事実を認め、素直に謝罪すべきは謝罪して、法論の次の段階へと進んでほしいものです。 中略)大埜氏がそうした潔い姿勢に立てば、法論は再開されましょうし、その中で、順を追って大埜氏の疑難に対する 回答も示す、との約束がなされているのですから、ぜひ、真摯な反省をしていただきたい、と念ずるものであります。」
とのまともな議論の展開も願いながら、大埜氏が、今回のWeb法論をきっかけに、自らの我慢偏執を改めて正法正義に 帰されることをお祈り申し上げます。

「大埜氏の稚拙な疑難は全て打ち破られた」
■理境坊内 小川正豪
  
  
このたび、妙観講員と日蓮宗薬王寺住職・大埜とのweb法論の記録を拝見させていただきました。
 まず、日蓮正宗信徒として、破邪顕正の精神をもって邪宗僧侶に法論を挑む、堂々たる姿勢に敬意を表します。
 披見しますに法論の争点は、大埜が、
「私は過去に、法華講員、妙観講員、顕正会員など富士系の信徒1200名と会ってきましたが、最初の段階でのこの二つの問に、しっかりとお答えを頂いたことがありません」
と豪語し、息巻いて仕掛けてきた二つの愚問から始まっています。
 この両問は本門戒壇の大御本尊への疑難であり、その一見して誰にもわかる欺瞞に満ちたあげ足とりと、児戯にも劣る屁理屈は、反論するに足らないものでありますが、妙観講員はこれら疑難に対して、理路整然とした明快な答弁をしています。
 しかしながら、毒気深入の大埜は、素直に自らの誤りを認めようとせず、反論に困った末に論点をすり替え、次々と新たな難癖を羅列しています。その有り様は、過去に宗門誹謗をなしてきた謗法者の醜態と、全く変わりありません。
 とくに大埜の主張には、過去に日蓮正宗宗門を誹謗攻撃してきた徒輩の暴言の蒸し返しが多く、しかも、批判の根拠となる引用文献の意味の取り違えや、大埜の勝手な推測による稚拙な論が目立ちます。妄想に取り憑かれ、支離滅裂な言を繰り返す姿は、狂気の沙汰としか言い様がありません。
 日蓮宗と名乗り、あたかも大聖人の教えを受け継ぐ正統門流であるかのごとく振る舞っていますが、その実は、五老僧の濁流を汲む本尊雑乱の謗法宗団であり、けっして大聖人の御心に叶う宗派ではありません。
「源にごりぬればながれきよからず」(御書八二七頁)
の失は免れず、そこに正法正義が存在しないことは明白であります。
 このたびのweb法論によって、日蓮宗の誑惑がより証明されたものと確信する次第であります。 これをまとめた書の発刊により、大埜自身が自らの誤りを糺し、貴宗の邪義から一刻も早く目覚めんことを切望するとともに、邪宗日蓮宗に惑わされている日蓮宗信徒が、本書を手に取り、その誤謬を看取し、富士の清流に帰伏されることを願うものであります。

 

謗法による毒気深入の現証を見た
■大石寺内 青木良信

 
  私はこれまで、創価学会員や顕正会員の折伏は数多く行なってきたし、法論なども見聞きしてきた。
 その論点はだいたいいつも同じで、唯授一人の血脈の否定や三宝論、本尊論などが主な争点となる。顕正会に至っては、ほとんど創価学会の焼き直しだ。それらは、すでに宗門から破折し尽くされているので、現在では目新しいものはほとんど見受けられない。
 そしてこのたび、日蓮宗の現職住職が日蓮正宗法華講の妙観講講員に法論を挑んだと聞いて、大変興味がわいた。その理由は、富士門流の者1200名以上と論争してきた、とかいう氏が、いったい、どのような持論を展開するのか、という点である。
 氏によれば、多くの富士門流の者の逃げ口上が「信じればいいんだ!」だったという。1200名という多くの者が、そんな逃げ口上を叩いて遁走する事態になっていたとすれば、少しは大埜氏の噂を聞いてもよいものだが、私はこれまで寡聞にして耳にしたことがない。

  ますます興味がわいたので大埜氏について少々調べてみることにした。氏が住職を務める寺院のホームページによれば、薬王寺は大聖人の六老僧の一人・大国阿闍梨日朗の弟子の日像を開基としている。日像が荒行の末に療養すべく行き着いたところが真言宗の寺院で、これを改宗させたことに始まる、とのことだ。
 さらに閲覧を進めると、他の日蓮宗の寺院と同様、これ見よがしに仏像を紹介している。大聖人座像をはじめ、釈尊像、恵比寿、鬼子母神、熱田大明神、大黒天、馬頭観音などなど。さらに平成26年には薬王菩薩の開眼までしたそうである。
 それはまるで、大聖人の「諸宗は本尊にまどえり」の御制誡にピッタリ当てはまってます、という自虐を紹介しているようなものであった。
 また、大埜氏の肩書きが紹介されていた。一部を挙げると、保護司、日蓮宗専任布教師、日蓮宗カルト対応プロジェクト委員、NPO法人全日本青少年育成協会理事長、日本脱カルト協会カウンセリング部会員などなど。それだけを見ると、さぞかし日蓮宗の中でも信任が厚いのであろう。
 さて、法論を読んでみての感想だが、氏の持論は全てネット上に転がっているものであり、日蓮正宗への単なる悪口程度のネタであった。それをもって「富士系の信徒1200名と会ってきましたが、最初の段階でこの二つの問いに、しっかりとお答えを頂いたことがありません」と凄んでいたが、今回は少々勝手が違ったようだ。
 妙観講側からの的確な破折を受けて、慌てふためいている様子が手に取るように分かる。
 最初は二つだった争点が、筋違いの言いがかり、論点ずらしの放言により、そこを叩けば「関連項目だ」などとといって議論を拡散させる。まるでモグラたたきの様相と化したWEB法論であった。
 その狼狽ぶりから、私には、氏が本当にこのネタで1200名もの人と法論をしてきたとは、とうてい思えない。大埜氏の狂乱ぶりは、創価学会員や顕正会員のそれと同様に、まさに謗法の害毒に冒された者特有の現証、といってよいものであった。
 大埜氏よ、当家の宗旨の根幹である本門戒壇の大御本尊に対する論争を仕掛ける前に、「法華経の題目を以て本尊とすべし」との御金言に従い、妙法曼荼羅を本尊と定めてから当家との法論に臨みなさい。大聖人を宗祖と崇める一方で、その教えを違えていることに気づくべきであり、僧侶として、また、公人として、人を真っ当に導けるよう、まず信仰の矛盾を解消すべきであると指摘しておく。

 

「大聖人を詐欺坊主と呼ぶ日蓮宗住職の無信心」
大草一男(妙観講講頭)


  このたびの日蓮宗住職・大埜慈誠氏との法論を見て、一つ言えることは、議論の内容はまだ入口の段階で、互いの法義信条を尽くすようなところまで至っていないが、それでも、いずれが正でいずれが邪かは、論者の姿、在り様からわかる、ということである。
 日蓮大聖人は「法妙なるが故に人尊し」と仰せだが、その道理から言えば、信受する法が低劣邪悪であれば、その人の境界もしかるべきものとなる。
 むろん、それがまだ信行未熟な初心者であれば、その限りではなかろうが、日蓮宗側の論者・大埜氏は、歴とした寺院住職であり、また、あたかも一宗の法論対策係のような形で乗り出してきたのであるから、その姿・在り様には日蓮宗の信仰が滲み出ている、と見るべきが当然であろう。
 しかして、大埜氏の言動が極めて異常であり、これが正法の信仰者などでないことは、法論の中で明々白々となっている。これについては繁雑になるので、私は重ねて述べない。
 
  また、もう一つ明らかになったのは、大埜氏が、じつは宗祖たる日蓮大聖人を全く尊崇などしていない、という事実である。
 法華講側が法論の一旦中断を伝えた後、大埜氏は、またしても自説を繰り返し強弁するメールを送り付けてきており(公平を期して双方五通ずつのメールを公開する、と決めた後のものなので、今回の公開分には含まれていない)、そのメールを転送して見せてもらったところ、その中で大埜氏は、なんと、
「あんな彫刻が宗祖の作で、ひそかに日興上人に相承されたものだとすれば、宗祖ほど無慈悲な詐欺坊主はいません」
などの暴言を吐いているのだ。
 法論の中では、
「何度も言う通り、戒壇本尊が宗祖筆だと確認されたら、私はすぐに大石寺門下に入ると言っているのです」「すべて認めて末端会員から始めますよ」
などと言っていたくせに、本音は、戒壇の大御本尊が宗祖筆だとわかったら宗祖を無慈悲な詐欺坊主だとみなす、というのである(だいたい、仮定の段階であるにせよ、宗祖たる大聖人を「詐欺坊主」などの言葉で呼ぶ神経がどうかしている)。
 要するに大埜氏は、自らの誤りがハッキリしたら相手側に着く、などという素直さなど最初から持ち合わせておらず、いざとなったら、大聖人をも「詐欺坊主」と呼んで、自分の現在の立ち位置(薬王寺住職としての立場)を通すつもりなのであろう。もとより、日蓮大聖人への尊崇心などゼロ、なのだ。
 そのくせ、口先では宗祖の教えを命懸けで広める、などと大層なことを言う。
 こんな人物を住職にしていて、日蓮宗では恥ずかしくないのだろうか。他門のことながら、気になるところではある。
いずれにしても、このたびの法論は、法義的には入口段階であるが、双方の正邪についてはもはや明白になった、といえるであろう。

 

★小島紀子 千葉県在住

 私は田畑さんとは学生時代からの友人です。
今回、彼が清澄寺に行って話のできるお坊さんと出会えた、と喜んでいるのを聞いていましたので、その後の顛末には驚きと共に、呆れてしまいました。
割って入った大埜氏が、仰々しい肩書きと1200人切りの武勇伝を並べて、いきなり一方的に二つの質問を送り付けてきましたが、その内容も、いかにも一般の在家信徒にはすぐに答えられなそうな文献を出して、初めから相手を威嚇しようとしているように見えました。
  どうせビビッて逃げ出すとでも思っていたのでしょうか、この時点で、なんかチンピラみたいな僧侶だなと感じました。それでいて、逃げるどころか薬王寺対妙観講で正式に法論しようと提案したら、「自分は負けたら仕事を失う。フェアじゃない」などと言って、仏教の専門家であろう出家僧侶対一在家信徒という、世間一般から見ればアンフェアではないか、と感じる条件でのスタートになりました。ちょっと笑えました。

 その後のメールのやり取りには、正直言ってうんざりしました。
 はじめに一方的に「今まで1200人、この二つの質問にしっかりとお答え頂いたことはありません」と言い放ってきたのだから、この二点をきちんと決着をつけてから後の質問に進めばいいのに、どうして次々と論点をずらして新たな質問を繰り返すのでしょう。
ブレずに論じようとすれば「逃げてる」とか言って挑発して、指摘された間違いは認めない、都合が悪くなるとすり替える、偽書の件に至っては、完全に確信犯ですよね。
  真面目に、真実を追求しようという姿勢が全くない。相手がうんざりして終わりにするのを待って、逃げたことにしてしまいたいだけではないでしょうか。
そして、一貫して感じるのは、よほど日蓮正宗が憎くて、言い負かすためだけの研究を積んできた人なのだろうな、という印象です。仏教って、成仏を願って修行するものではないのでしょうか。
日蓮宗の僧侶として修行を積んだ結果が、このような人格破綻になるのであれば、この姿こそが、日蓮宗ではまともな境界にはなれないことを露呈していると思います。
田畑さんの苦労が偲ばれますが、せっかくの機会ですので、きちんと決着をつけるべく、大埜氏には、話をそらさずに最後まで議論していただくことを望みます。

 

★中林由子・東京都杉並区在住

 妙観講HPに、法華講員と日蓮宗僧侶との法論がアップされ、興味深く読ませていただきました。
 日蓮宗側の大埜氏は、日蓮宗専任布教師・日蓮宗布教専修師・日蓮宗社会教導師、その他、社会的にも保護司・全国青少年育成協会理事長等、さまざまな肩書をもっておられるようです。
 また、“これまで遭遇した富士系の信徒1200名が、誰一人として答えられなかった疑難がある”との大埜氏の豪語に、いったい、どのような疑難が出されるのだろう?と期待したものです。
 ところが、それは、文証を読み違えた挙げ句、すでに後年、修正されている日付の記述を挙げての針小棒大な批判であったり、仏像本尊を否定して“仏滅後二千二百三十余年に顕わされる御本尊を崇めよ”(趣意)とされた『御伝土代』の文について、「本門戒壇の大御本尊には『二千二百二十余年』とあります。日道は…戒壇本尊を相承されていながら、別の曼荼羅への信仰を求めている」等というレベルの批判でしかありませんでした。
 これでは言いがかりではないか、と失望してしまいました。本質を見失った疑難としか言いようがありません。

  これに対し、「有師物語聴聞抄佳跡」は日有上人談の「御物語聴聞抄」に日因上人が注釈を加えられた書であって、当該箇所の「十月十三日」は日有上人の御言葉でなく、日因上人の臨時の御失錯に過ぎないこと、さらに『御伝土代』の記述は仏像本尊を否定するところに主意があり、末法においては曼荼羅御本尊が正意であるとされた文意であることを明らかにした妙観講側の回答は、まことに納得できるものでした。 私は当然、大埜氏が錯誤を認めた上で、さらに法論が進められていくものと期待しました。
ところが大埜氏は、「クソ坊主!と罵詈雑言を浴びせて逃亡する過去の法論相手と違いますね。経緯を表します」などと余裕を装いながら、まもなく言葉遣いも粗雑となって、あきらかに動揺している様子が見てとれました。
それは回を重ねるほどに極まっていき、第三問答、第四問答になると、もはや意味不明――。ハッキリ言って、妙観講側の回答を読んで、初めて大埜氏の言わんとすることがわかった、という箇所もあったほどです。
 これに対し妙観講側は、威儀を崩さないまでも、厳しい言辞を以て報いており、それがまた、痛快でさえありました。
 そんなこんなで結局、膠着状態に陥って決着がつかなかったのは、本当に残念でしたが、私は、その責任は、ひとえに大埜氏の側にあると思います。

  そこで、法論の再開を期待する者として、大埜氏に要望です。
①ハッキリと結論の出ている事柄については、関係のない他の法華講員の返答など持ち出さずに、潔く、誤りを認めてください。そうでなくては法論は進みません。
②また何事につけ、後世の研究によって真実をより明らかにしていくことは正しい取り組みと考えます。それを、「おいおい、また出ましたね。後世の歴代優先が…血脈相承が聞いてあきれますね」「では日因も嘘を書に残したのですから、日因も崩壊していますね」等とハッタリを言うのは、いかがなものでしょうか?ここまで来ると悪口のレベルでしかないと思うのですが。
③なお、薬王寺のHPを見ましたが、まさに本尊雑乱の極みであり、そのような寺院の住職を勤める人が、末法正意の本尊を論ずる資格を有するとは思えません。法論再開の前に、ぜひ本尊の整理をしていただきたく存じます。

 

★伊丹陽子 東京都在住

 これを読んで、法論においては、法義的な解釈を並べるだけでは相手を折伏することはできず、正しいことを理解できない相手の命の濁りを折り伏さなくてはいけないのだと思いました。
 薬王寺僧侶と妙観講側とでは、仏法の教学力はもちろんですが、的を射た簡潔な返答といい、わかりやすく論理的な文章といい、大人と子供のやり取りを読んでいるほど境界の差があり、どちらが破折されている立場にあるかは、一読すれば明らかです。
 最初は真面目な学究者のふりをして余裕で構えているように見えた僧も、徐々に本性が露見していく様がみえ、法論を攪乱させようとしても歯が立たず、哀れに思えました。何かにつけて言い訳がましく、長々クドイ文面からも、醜さがにじみ出ているようでした。
 それにしても、偽書と判明していることを知りながら、 意図的に御書として挙げ、相手を引掛けようとする質の悪さ。全く呆れたものです。
  この日蓮宗の僧は、 戒壇の大御本尊と血脈相承の尊厳を貶めたいという邪心と嫉妬によって、文献の解釈も自らの命も捻じ曲がってしまい、正しいことを提示されても脳が受け付けない状態になっているのだと思います。こうした相手に対して、 まともな論議ができないから と一蹴することもできたはずですが、こうした機会を逃さず折伏し、一般にも公開してもらえたことが大変ありがたいです。
 この僧が言うように、戒壇の大御本尊への疑難について、過去1200名の富士門徒から回答を得られなかったが「この機会にご教授いただけそうで幸い」だというのなら、今回の正式な法論という場で、最初から薬王寺の僧の”初歩的な誤り”だったことが判明したのですから、こうした法義上の正邪を「正々堂々と世に公開」して、多くの人の目に触れさせるべきではないでしょうか。 よって薬王寺のホームページにもこの法論を掲載することを切望します。

 

★原麻木子 東京都在住

 このたび、貴重な法論の内容を読ませていただき大変感激いたしました。
 何に感激したかといいますと、正邪というものがこんなにはっきりと浮き彫りになるのか、ということと、正しい道理の上から照らされると、難しく思える疑難であっても、誰の目から見てもキッチリと決判できる、ということに感激した次第です。
 大埜氏の文は、最初の質問までは平常心で読むことができましたが、法華講側の理路整然とした回答で大埜氏の矛盾と誤りが指摘されていく中で、次第にヒートアップしながら姑息な姿が露呈していく様を見て、憤りで読むことが困難に感じました。しかし、その一つ一つに、少しの妥協もなく厳しく丁寧に対応していく返答に、胸のすく思いで、思わす涙が出ました。
 文献上の証拠、道理、現証に裏付けされた、確固たる信念の上からは、いかなる疑難も真正面から、冷静に対応できるのであり、真実も明らかになるのだということを、目の当たりにした次第です。

 さらには、最後の返答の内容にすべてが要約されており、本当にスッキリとしました。すなわち、大埜氏の姿として
①      自説の誤りが明らかになっても絶対に認めずに誤魔化してしまう
②      自らの思い込みが強く、絶対に相手の言っていることを理解しようとしない
③      自説の誤りが露呈したらスリカエによって批判をかわす
④      自らの誤りを頬かむりすべく、強ちに悪口誹謗を重ねる
⑤      非学匠は理に詰まらず
 あまりにも適確な指摘だと思いました。
 さらには、「全日本青少年育成協会長 理事長 大埜慈誠」との肩書きを挙げて法論を開始した大埜氏について、全日本青少年育成協会長に相応しくないことを指摘するや、憤慨しまくる大埜氏に対して、宗祖が「人法共に折伏して御覧ぜよ」と仰せである、との道理が示されたことも、本当に勉強になりました。

★清水 準 千葉県在住

 双方のやり取りを読ませていただきました。大埜氏は、1200名もの人を打ち負かしたと豪語しているので、どんなすごい方なのかと楽しみにしていましたが、本当にがっかりしました。
 また、大埜氏の狂乱ぶりには、大変驚かされました。田畑氏側がシンプルかつ丁寧に説明しているのにもかかわらず、全く理解不能で、的はずれな回答をしてきます。 基本的な姿勢や、日本語の理解力に問題があるようです。 
  日蓮宗の住職とのことですが、彼のもとに所属する信徒が気の毒に思えました。
  一分ではありますが、まともな法論を期待した私にとって、今回の内容はとてもショッキングなものでした。
 特に、自説の誤りが明らかになってもそれを認めず、誤魔化してしまうという姿勢は、完全に歪んでいるとしか言いようがありません。
 大埜氏にとって法論の目的は、真摯に教義上における正邪を判別し、正しい信仰に従おうというものとは、大きくかけ離れている、と思いました。
  具体的には「有師物語聴聞抄佳跡上」に関して、文献を正確に読み解けないことにつき、すみません、と一言謝り、正せば良いものを、次から次へと違う質問をしてきては、邪魔ばかりするという具合です。 どうせ、適当に言っておいても大丈夫だろう、との無責任さ、いい加減さが感じられます。
 こういう方には、内容を公にして客観的に判断をしていただくしかないと思います。ぜひとも、様々な媒体に載せていだきたいと思います。

 

★松浦景似子 埼玉県草加市在住

 日蓮宗の大埜氏は何が言いたいのか分かりませんでした。何度読んでも支離滅裂で、頭が痛くなり、全文読むのに時間がかかりました。
 話をするとき、相手にわかるように話すのは当たり前のことです。そうでなければ、話は進みません。このような文章は、法論以前の問題で、国語のお勉強からやり直しなさい!と言いたいです。
  きっと檀家の方は、このような意味不明の話を、まことしやかに聞かされているのでしょう。本当にお気の毒です。
 逆に、田畑氏側が、これだけめちゃくちゃな日本語を汲み取り、回答しているのがすごかったです。しかもその内容は理路整然として、とても分かりやすかったです。それを読んで、大埜氏の言いたいことが分かりました。最後の返答では、痛快な回答で、痛かった頭がすっきりしました。
 今回、このような文章を公開していただき、改めて、日蓮宗の害毒の恐ろしさを痛感した思いです。

★大滝久美子 埼玉県越谷市在住

 今回の法論の内容を読ませていただきました。
 最初の感想ですが、日蓮宗・大埜氏のメールを読み進めていくと、頭が痛くなりました。この人はいったい何が言いたいのだろう・・と思い、何とか理解しようとするのですが、読んでいるこちらが混乱してきてしまうからです。
 それに対して、法華講側の返信は、要領の得ない相手の主張を簡潔にまとめてあげ、その間違いを的確に糺し教えてあげる、という内容で本当に解りやすかったです。
 大埜氏がはじめに投げかけてきた疑難二点に対し、一つめの「有師物語聴聞抄佳跡 上」では、日因上人が戒壇の大御本尊書写の日にちを一日書き違えられたことを、まるで鬼の首でも取ったかのごとく大騒ぎし、誹謗し続ける様は、常軌を逸しているというか、憐れささえ感じました。

 また、二点目の第四世日道上人の「御伝土代」においても、田畑氏側が説明しているように、その文意を拝すれば、曼荼羅御本尊のみが崇める対象であり、釈尊像を崇めてはならないことを示された御文であることは、誰の目にも明らかです。
  にもかかわらず、大埜氏は、仏滅後二千二百二十余年の文字にのみ執着し的はずれな批判を展開する、という間違いを犯している。
  また、そのことを懇切丁寧に説明してあげても、意味をわかろうとしないばかりか、さらなる批判・すり替えを繰り返す。
 いったい、この人の頭の中はどうなっているのだろう?まともな会話ができない相手には何を言っても通じないし、時間の無駄なんじゃないかと、呆れるばかりでした。
 これでは、1200人の人たちが嫌気がさして、大埜氏の相手をしなくなるのも頷ける気がします。それを大埜氏が、勝手に勝利宣言をしていたのだ、と本当の実態がよくわかりました。
 今回のやりとりを読んで、邪宗・日蓮宗の恐ろしさを確認すると共に、自らも正しい教義をしっかり学び、身につけてまいりたいと思いました。

 

★平井 健一 千葉県柏市在住

 大埜氏の節操のなさは、本当に気持ち悪くなりました。
 最初の2つの問いの回答に対する反論もできないうちに、別の疑難をどんどん持ち出してくる--。これが1200人を閉口させる手口なのでしょう。
 普通の会話をしているときに、こんなことをされたら、「この人は精神が侵されていて危ない人だから関わるのをやめよう」と思うでしょう。
  1200人を閉口させても、何の自慢にもなりませんね。かえって大埜氏の異常さが際立つだけです。 1200人が日蓮宗に改宗した、というのであればともかく、そんなことでは全くなかったわけですよね。ご自分の説得力のなさを少しは反省した方がよいのではないか、と思いました。

 対して、田畑氏側は、大埜氏のそのような姿勢を見破り、論点をずらそうという論法を常に修正され、その上からきちんと論じていくという姿勢で、とても理論がきちんとしています。
 また、以下の部分は、特に強く同意しました。
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貴職は、「大石寺の公式な見解ですか?」「大石寺の公式見解なのですね?」「それが大石寺の公式見解なのですね?」「これは大石寺の公式見解なのですね?」等々、なんと、短い文中に四回も同じ文言を繰り返しています。

貴職よ、記憶は大丈夫ですか? そもそも、この法論は、寺を背負ってはできない、という貴職の要望により、個人的に行なうことになった法論です。

したがって、私は、妙観講を代表する立場でもなければ、むろん大石寺を代表する立場などでもありません。あくまでも私個人として貴職(世間的な敬意を表して貴職と書きましたが、正しくは、個人の「あなた」です)と法論を始めたのです。

しかるに、返答に窮すれば「それは大石寺の公式見解か」と切り返すわけですか?

これも貴職の卑怯な論点外しです(といっても自己陶酔気味の貴職には、卑怯と感じられないかもしれませんが)。

私は、あくまでも私の宗教上の信念によって貴職との法論に臨んでおり、また自らの述べたことは、大石寺の教義信条に適っている、と確信しています。それで十分だと思いますが、それが不服なら、個人としての法論を要求した自らが間違っていた、として、法論から逃避なさるしかありませんね。

なおまた貴職が、これは大石寺の公式見解かと、幾度も幾度も繰り返されているのを見ると、失礼ながら「半狂乱」になりかかっているのではないか、と思います。言葉は一回言えばわかりますから、こんな異常な繰り返しをする、動転した心を鎮めて、もっと冷静になったらいかがですか。
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 「そもそも、この法論は、寺を背負ってはできない」というのですよね。これは、本当に法論に負けることがありえない、と確信しているなら、背負ってできるのではないでしょうか。こんな卑怯な僧侶には宗教的信念を感じられません。
 こんな僧侶が青少年を育成する立場だなんて、とんでもない話ですね。こんなのでNPOを作れてしまうんですね。

 普通に読んでいて、大埜氏のような人についていこうなどと、だれも思わないのではないでしょうか。


★平福久幸

 内道・外道のケジメもつかない者が、日蓮正宗の仏法に難癖をつけるとこうまで支離滅裂になるのかと思いました。
 私はこの日蓮宗僧侶は、日蓮大聖人の御化導について、「私に分かるように説明しろよ」とでも言っているように感じました。また、そういう者は次から次へ疑難を広げてしまうので、やはり、最初の疑難に決着をつけてからでないと次に進まない、という姿勢を徹底すべきだなと思いました。


★浅賀利一 埼玉県在住

 まず第一の感想としては、日蓮宗僧侶大埜氏は自分の言いたいことしか述べず、全く法論になっていないということです。
 はじめに田畑氏側が大埜氏の読み間違えを指摘しても素直に認めず、支離滅裂な、反論にならない反論を繰り返すのみで呆れるばかりです。
 また、臨時の御失錯と言っているのに、それを鬼の首でも取ったように拡大する論調は、狂っているとしか言いようがありません。それでいて、自分の誤りは認めないばかりか、核心部分の反論は全くできないものと確信しました。
 大埜氏が哀れでなりません。

 
★佐々木信能 千葉県在住

 法論の全貌を拝見し、大埜氏の法論に対する不誠実さに憤りを感じました。
 正宗批判の根拠として挙げた日因上人の御文を日有上人の御文と読み間違えていて、最初から破折に躓いているにも拘らず、その指摘を無視して強引に持論を展開している姿は、無知を晒した恥を感じていないのかと、疑問に思いました。

 法華講員からの、論を整理した上での的確な指摘に対しても、全く答えようとせず「これは関連質問です」の言葉を接続させて血脈否定の話にすり替える有り様は、まさに悪知恵に長けた創価学会教宣部と同じ穴の狢である、ということを暴露する結果となっていました。
 法華講側が、そのような大埜氏の挑発に乗らず、徹底的に、大埜氏の教学の浅はかさと、日本語能力の低さと、論者としての傲慢さを指摘された上で、薬王寺の本尊雑乱の実態を指摘された事は、痛快の極みでありました。戒壇の大御本尊を語る資格無しと、烙印を押されたも同然ではないでしょうか。
 あらためて、唯授一人の血脈を受け継がれる師匠の元で信心し学ぶことの大事を感じました。しっかり勉強し折伏していく決意です。

 
★小島則子 愛知県名古屋市在住

 一番最初に受けた印象は、薬王寺住職の文の主旨がどんどんズレて行っていて、項目も多くなっているのに、ご本人はまったくそれに気づかず、自分の中ではいたって真面目に返答していると思われる姿に、これはワザとやってるんでなくて、本当に気づいていないんだろうなと、哀れに思ってしまいました。 
 たぶん自分なりに仏法を解釈している間に、邪義が心底に染まってしまい、法華講側がわかりやすく、まるで勉強会のように丁寧に内容を噛み砕いて説明してあげても、曲がった心でしか見る事ができないので、本意が心に入らない、といった姿になっているのでしょう。邪義は本当に恐ろしいと思いました。
 また、読んでいくと、おもしろくて夜中までかけて一気に進めてしまいました。とはいっても、最後は相手があまりに同じ事を言うので、ほんと、いい加減にしろと、言いたくなりました。頭が割れてます、大埜氏は。
 こんなに何回も丁寧に説明してもらっても、自分がとんちんかんである事が理解できないなんて、恐ろしい事です。


★永井圴 東京都練馬区在住

 今回のやり取りを見て、まず思ったことは、法華講側の粘り強さです。
 異流義の創価学会・顕正会などを折伏すると、ただ、まくし立てて話にならない人がいます。また、キリスト教徒などは、なかなか道理が通じないことがあります。それを掛け合わせたような相手に、よくこのように粘り強く話したもの、と関心しました。

 さて、最初の大埜氏の質問のメールですが、本題に入るまえに、あたかも「いいか、いいか、これに答えろよ」と言わんばかりの表現が数回あり、やっと本題の、疑難が二題書かれていました。
 末尾には、本題とは無関係の「全日本青少年育成協会会長 理事長」という役職も入っていました。これは、力の無い人間が自分を大きく見せるためにやる行為で、これらの文面からして、この大埜慈誠がどのような人物か、想像がつきました。
 また、大埜の文面として、辛うじて意味が分かったのは、この最初の質問のみ、その後は支離滅裂を極め、やむなく、先に法華講側の反論文を読み、やっと大埜の言う意味が理解できました。大埜の話はともかく意味不明の部分が多いと思います。まさに頭破七分の姿そのものであります。

 また、折伏の際に、自分が出した疑問を破折されると、次から次へと疑難を投げてくる相手がいますが、まさにこの大埜は、その典型で、「明らかにしたい」というスタンスではなく、疑難のための疑難ばかりです。
 それをそのつど諌め、論点を明確にする法華講員の破折を見るに付け、どちらが正しいか結果は歴然だと思います。
 願わくば、この内容を、日蓮宗のしかるべき要職者に見せ、どのように思うか回答をもらいたいと思います。

 
★蒲生雅之 東京都国立市在住

 メール法論、大変興味深く読ませていただきました。大埜氏は、1200人と法論したとのこと、本当かどうかわかりませんが、この内容を見ると、相手する方が嫌気がさすのも当然と思われます。法華講側の根気強さには感服しました。
 途中で創価学会教宣部との類似性を指摘する箇所がありましたが、まったく同感です。
私も法華講員としてたくさんの教宣部員と話をしてきましたが、やはり戒壇の大御本尊のこと、血脈相承について、あらゆる難癖をつけてきます。
  こちらが一つ一つ破折していくと、必ず話を広げ、論点をずらし、最後は「直ちに大御本尊が本物である証拠を出せ」「血脈相承があったことを今すぐ証明しろ」と逃げ込み、わめき散らします。
  自分の非は絶対に認めず、相手のあら探しを徹底的にする、法の正邪は端から問題でなく、相手をやり込めることだけを目的とする、大埜氏の姿はそのような学会員と同轍で、やはり邪宗同士、似てくるんだなと深く納得しました。
 そのような相手とまともな議論を交わすことは、まず不可能だと感じていましたが、そのような質の悪い相手にも、最後まで挑発に乗らず、論点をずらさず、追い詰めていかれたこと、大変参考になりました。

 それにしても、最後の破折メールはすがすがしく拝見しました。
  大埜氏の姑息さ、卑怯さ、よこしまぶりは、読む中で気持ち悪くなるくらいでしたが、最後のメールでは、そのすべてが白日の下にさらされた感があります。邪宗教の害毒によって頭破七分してしまった人間の、典型的なサンプルとして記録しておくことに、大きな意味があると感じました。
 最後にありますように、大埜氏が自らの非を自覚し、態度を改めますこと、その上で、さらなる法論の展開を期待いたします。

 
★畑中康生 東京都練馬区在住

 始めから勘違い 読み違い 思い込みでの疑難であり それを指摘された後は 潔く誤りを認め 次の疑難を出すならともかく 首を落とされたことに気づかぬ鶏のごとく 次々と捲し立てるあたりは 1200人を破った云々と凄んだわりにはみっともなく 法義に暗い人でも 勝敗はあったとわかる内容でした。
 正宗側の返答の中にもありましたが 大埜某は  まるで創価学会で修行を積んだのかと思える程 異流義の典型だと感じました。
 全く法論になっていない…あたかも  一対一の真剣勝負に 刀を抜いたら 鞘しかなく刃がついていない。
  とても勝ち目はないけれど こうなったら回りにあるもの全部投げつけよう…みたいなコントに見えました。
 薬王寺の檀家が不憫でなりません。

 
★芳賀則彦

 妙観講の田畑氏が日蓮宗を折伏しているなかで、薬王寺住職が、「私は今まで法論で1200名を退けた。私が相手です」とばかりに登場し、法論対決がされた、と知りました。
 どのような素晴らしい法論が展開されるのかと、心躍らせていたのですが、薬王寺住職大埜氏の最初の質問が出てきた時点で、既にガッカリしてしまいました。
 大埜氏の疑難は、過去から、邪宗邪義の者達が言って来た内容であり、インターネット等で探せば、大した教学などが無い者でも言える内容ばかりで、しかも、過去に明確に破折されている内容ばかりでした。
 大聖人の御書を正しく拝していけば、道理、筋道の上から、自ずと出世の本懐の大御本尊に行きつきます。
 しかし、日蓮宗や異流義の者達は、出世の本懐である御本尊を示すことができず、日蓮正宗のみ、その御本尊こそ弘安二年十月十二日の大御本尊なのだ、と明確に示しています。
 彼ら日蓮宗が、それを否定するしか生き残るすべが無いのは哀れであり、人格も破壊されていってしまうのだと感じました。

 更には、個々の信仰の対象たる曼荼羅御本尊と、一閻浮提の信仰の根源たる大曼荼羅御本尊の違いも分からない質問は、まさしく日蓮正宗を否定せんがための否定でした。
 そして、思い込みによる読み違いを、延々と認める事なく質問を拡大して、場外乱闘にしてしまおうという、邪な心根が全開に感じられました。
 所詮、大聖人を天台大師の弟子としか拝することのできなかった五老僧の末裔なのだ、と思いました。
 また、最後に挙げられていた、本尊雑乱の事など、いかに言い訳してもどうにもならないですよね。

    
★中森敦志 長野県佐久市在住

 大埜氏は本当に日蓮宗の僧侶なのか?
 法華講員の田畑氏に向かって「貴殿は唯一無二の宗教を自認し、それゆえに他を非難し、人を勧誘する云々」と難じているが、大埜氏は日蓮宗と名乗りながら〝四箇格言〟も〝立正安国論〟も聞いたことがないのではないかと推察する。
 すなわち、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の四箇格言を突き詰めていけば「唯一無二」ではないか。
 また「他を非難し」というが、道理をもって他を糾していくのが人の道であり立正安国論の精神ではないか。
 日蓮宗を改名し、冠婚葬祭宗とでも名乗れば、寺に客が多くなるかも知れませんぞ!! そもそも、日蓮大聖人の凡夫僧としての御姿を見て、あれは自分と全く同じだと思ったところに、五老の間違いがあった。凡夫身であれば、当然、臨時の御失錯もあられるが、それをもって大聖人を自分達と同じ迷える凡夫だと思い、自分達の兄貴分くらいに考えたところが大きな間違いだったのだ。
 それと同様、文字の書き間違いがあれば、全部が否定されるかのごとき論法で、日因上人を貶めようというのは、全知全能の神を立てる宗教でもあるまいし、仏教がわかっていない、としか言いようがありません。
 ちゃんと仏様の教えを学び直してください。

 

★庄司厚 長野県佐久市在住

 かなり長いやり取りですが、大埜住職の述べている内容には、真摯さがなく、後に行くほど、指摘された内容に対して、自分が前に言った事を平気で誤魔化しており、まったく信じられません。
 まず、初めのメールで大埜住職は、「有師物語聴聞抄佳跡上」をあげて
「当然これが戒壇の大本尊の初出ですから、日蓮聖人の書にはおろか、日興さんも日目さんも、そこから八世まではどこにも出てこないわけですね、戒壇の大本尊ほどのもののことが。九世になって突然出てきた」
と言った事に対して、法華講員からの反論で、
「貴職の引かれた文は、まさに、その日因上人が『私に云く』として書かれた部分です」
と指摘されると、2回目のメールで大埜住職は、
「誰が書いたかも日因さん自身が分かっていないわけですから、『私の曰』と書かざるを得ないのでしょう。私も日因さんのものだと思ってますよ、当然」
と前言を翻しました。

 そのいい加減さに対し、法華講員は、
「『本書に云く』さらには『日有上人の仰せに云く』として示される本文部分と、その後に一段下げて『日因私に云く』として加えられた注釈から成っています。すなわちこの書は、第九世日有上人の所談の聞書と、それに関する第三十一世日因上人の注釈からなっているもの」
と明確に示し、
「全く読解力ゼロの愚人の戯言です。こんな調子で資料をデタラメに解釈して、それを得意満面に出してこられては、法論がまともに進みません」
と指摘しました。

 その指摘に対して、大埜住職は
「私はこの書を見た時から、『日有の名を借りた、日因の創作書』だと思っていましたよ。しかし、九世だろうと三十一世だろうと」
などと誤魔化して、どうでもいいようにしています。
 自分が資料の解釈で聞違っていたら、それを認めて、次に進めば良いのですが、そうしないで、別のことを言って関連質問だと開き直っています、まともに答える気がないのです。

 そして、誰が見ても明らかにおかしいやり取りと思ったのは、次のところです。
大埜住職の質問
「質問四。弘安二年十月著作の宗祖曼荼羅だけでも三遍現存。
なぜ弘安二年の曼荼羅なのか?そして、それが戒壇本尊だと言えるのかの根拠を示してください」

法華講員の答え
「自分の文章をよく読み直してください。日本語として意昧不明ですよ。あえて貴職の意味不明の文章を、親切に読解してあげることはいたしません」

この答えに対し、大埜住職は、
「だから、都合の悪いことから逃亡するのはやめなさい。あなたが、『その全ての御本尊の中心・本体にあたるのが、広宣流布の暁に本門戒壇に安置される弘安二年の大御本尊』だと言ったのでしょう?」
と反論しています。どうして、このような恥知らずな反論ができるのでしょうか。質間四は、明らかに意味不明です。法華講員が、「親切に読解してあげることはいたしません」と言っていますが、あるいは大埜住職は、
「弘安二年十月著作の宗祖曼荼羅だけでも三遍現存。なぜ、弘安二年十月十二日の曼荼羅なのか?」と言いたかったのでしょうかね?

 それなのに、「なぜ弘安二年の曼荼羅なのか?」と十月も飛ばしてしまいました。これでは、前の文とつながりません。本当に意味不明です。興奮して、自分の書いた文書も確認しないで、法論を進めているのですか?
 さらに、もっとおかしいのは、その反輪です。

「だから、都合の悪いことから逃亡するのはやめなさい。」だって!噴飯ものですよ、これは。自分の事を言っているとしか思えません。
法華講員が指摘している意味が分かっておらずに、自分の主張したいことだけ「わめいている]としか見えません。
 大埜住職は、人の話を聞かない、相手が何と言っているかも理解しようとしない人なのでしょうか。
 普通は、自分の質問で言葉が足らなかったら、再度、質問し直すとか、お詫びするとか、真摯な態度で法論はすすめるべきものと思います。
 他のところも同様で、自分の言ったことに対して、反輪があったら、自分の言った事の正当性を述べるべきで、反論に対して、別の疑難を出したり、他の話に移すことは、卑怯です。
 法華講員が一つひとつやっていきましょうと言っても、不誠実で、さらに偽書まで出してくるとは、大埜住職の負けははっきりしています。

 

★佐須田征洋 長野県佐久市在住

 何だろう、この既視感(デジャブ)は? というのが一読直後の率直な感想。
  よくよく思いかえすと、創価学会男子部が、重箱の隅を突くようなことばかり言ってきた際、こちらが丁寧に回答しても「じゃぁ、これは、どうだ」「あれは、どうだ」と、矢継ぎ早に質問責めにしてきた姿と根っこは一緒なのだ、ということを認識させてもらいました。
 メールであれば、じっくり、一つひとつの事柄に対して、吟味が可能であるし、また、今回のように論点が分散することを防ぐための一日一通という約定であったものが、悪い予想通り、最初の質疑から、薬王寺側の勘違いによる言いがかりが明白になっているにも関わらず、自らの非も認めぬまま、論点をスリ替えてくる姿に、かつての創価学会男子部の姿とダブり、思わず苦笑してしまいました(そういえば、最初の部分で、富士系の信徒一二〇〇名と会って話してきた、という中に、創価学会が入っていなかったのは、ひょっとして創価学会とウラで繋がっているからか?と疑いたくなりました)。

   さらに、日付の差異を「矛盾」と記してくることに、本当に中学生の国語からやり直した方がよろしいのでは? と、思いました。と同時に、こんな人が、青少年の育成に関わる肩書きを持っていることに、大いなる疑問を抱かざるをえませんでした(今年の春、保護者会の会長をしていた澁谷某が、ベトナム国籍の小学女児を殺害した事件もありましたし)。
 そもそも、日付の違いは「臨時の御失錯」すなわち、今風にいうならば、稀に起きたケアレスミスであって、「齟齬が生じている」という表現にはなっても、論理的に「矛盾」とは言わないでしょう(食い違いという意味の齟齬と、相反する主張のぶつかり合う矛盾は、似ているようで、実は違う)。

 さらに後半に向かうにしたがって、大埜氏側のメールは、全文に対する引用の割合がたいへん大きくなり、かつ、大埜氏自身の主張は、きわめて短文となり、ただイチャモンを付けているだけ、という印象が強くなっていきます。
 もともと、身延と富士の共通の土俵は、宗祖・日蓮大聖人の御抄であり、その御文を論拠に議論がなされると思いきや、後代の大石寺側の文献に記された注釈に対する疑義(悪く言えば、言いがかり)でしかなく、本来であれば、道理と証文(大聖人の御書)を基に論じあうのが、まっとうな在り方でありましょうが、そのようになっていない(後代の大石寺御法主の注釈に対するイチャモンのみ)というところに、すでに、一致派の主張に勝ち目が無い、と言っているようなものではないでしょうか。
 いずれにしても、この大埜氏には、(彼が引用していた)かつての安永弁哲と同じように正式な謝罪文を書いてもらうまで、追い詰めたい思いでいっぱいになりました。
 日蓮大聖人「開目抄」に曰わく
「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」云々。
 大埜氏が、この文を理解できる日が、いつか訪れんことを。


★寺井智

 私はこの経緯を読ませて頂き、まず日蓮宗薬王寺側の教学力、彼らなりの法義に関する知識が、あまりに浅はかであることに驚きました。おそらく日蓮宗のスポークスマン的存在であろう大埜という住職が、この程度のことでしか、日蓮正宗に反論できないのか、と呆れてしまいました。
 そしてこの人物が、人から狂犬へとみるみる変貌する様にも驚きました。私自身はかつて折伏を受けた際、日蓮大聖人は、自分の教えより高いものがあればそちらを選びなさい、とまで言われている、と伺ったことを思い出したのですが、この住職は、そうした仏法の上から正邪を決しようとする志など実は皆無で、まさしく勝他の念に凝り固まり、最後は相手に噛みつくことしか脳に残っていないように思えます。
 今回、この法論を読むにあたり一番大変だったのは、この狂犬が何を言っているかを理解することでした。犬語はわかりませんので。

 ちなみに、薬王寺のWebサイトを確認しましたら、うちの寺にはこんなにたくさん仏像があるよ、と自慢する「薬王寺の仏像」なるページが存在し、唖然としてしまいました。
 日蓮大聖人座像に始まり、釈迦如来、恵比寿、鬼子母神、大黒天、観世音菩薩、稲荷明神、あげくは、歴史上の人である聖徳太子の像まで祀っています。
  さらに謎であるのは、金剛立像の解説に「年齢不詳」などと書いてあることでした…。まさに本尊雑乱で、こんな中で日々暮らしている住職がおかしくなるのは当然であると思いました。日蓮大聖人ご自身が、諸宗は本尊に迷えり、と喝破されているのに、どうして日蓮門下を名乗れるのでしょうか。これで本宗信徒に法論を挑むとは、まさしく百年早いというものです。
 しかし、そんな相手であっても、今回の法論において法華講側は丁寧に丁寧に対応され、破折しています。もちろんこれは邪宗許すまじ、からの折伏であり、法論を一般公開することも、膠着状態を打開し徹底的に邪義を折り伏せよう、との決意からのものと思います。また、その一方で、外部からの声を入れることで、少しでもこの日蓮宗住職が気づくことができないか、という慈悲の心を感じました。
 ぜひ、法論が次の段階に進み、大埜氏には目を醒ましてほしいものだと思います。

 

 ★清野和彦・千葉県市川市在住

 膨大な文書のやり取りの中から、日蓮宗僧侶の自己矛盾点を感じずにはいられませんでした。法華講側で端的にその矛盾点を突いた言葉で 「単純な日付けの誤記を取り上げ、それこそ鬼の首でも取ったかのごとく、「矛盾だらけの本尊や血脈」などと声高に罵っていますが、本当の「矛盾だらけの本尊」というのは貴職の寺における本尊雑乱のことでしょう。」
との記述には得心しました。
 「諸宗は本尊にまどえり」との大聖人の仰せから見ても、現在の薬王寺の実態は正に邪宗教と断定できる証左であり、自宗の本尊について自己を振り返って心静かに考えてみよ、と言いたいと思いました。

 日蓮宗僧侶の言っていることは、示された根拠である事実を曲がって捉えることしかできず、自身の思い込みが激しく、正に自身の言葉にあった、「信じればいいんだ」と開き直っている姿が自身に当てはまっている、と教えてあげたい思いで一杯になりました。
 とにかくこのような邪宗教がいまでも蔓延っていて害毒を周りにまき散らしていることに憤りを覚えた次第です。 

 

★岡崎文博・神奈川県川崎市在住

 このメールのやり取りを全部読むのに東京駅から電車に乗り新宿で小田急に乗り換えて住まいのある駅のベンチに座って一時間半もかかりました。
 私はこのやり取りを読んで日蓮宗というのは本当に恐ろしい害毒があるのだなとあらためて確信しました。
 この坊さんが携帯でこのような駄文を長々と送り続けられるのは、なにより閑人である証拠。
 私はこの愚かな穀潰しに額に汗して働いている人達に少しは申し訳ないと思え‼と言ってあげたいと思いました。

 

★青木誠・和歌山県和歌山市在中

 薬王寺とのやりとりについて読ませていただきましたが、難解な内容なので、すぐに理解をする事はできません。ただ、妙観講側の破折を読ませていただく事により、相手が何を言おうとしていたのか、何をとらえ違いしていたのかが、少しずつわかってきました。相手の邪宗の害毒による頑迷さ根性の悪さが顕著に出ており、また学会の教宣部によく似ていると感じました。
 途中の質問で、「それは大石寺の公式見解か?」と、こちらを動揺させようとした様な事を言ってきましたが、私なら回答が困難ですが、的確で説得性があり、さらに相手の質問のおかしさを諌める回答には、本当に凄い折伏だと思いました。

 

★辻由郎・三重県伊勢市在中

 法論のやり取りを読ませていただきました。
 大埜氏の質問から始まり、どのような展開になるのか楽しみに読み進めていたのですが、妙観講側の破折に対する反論がうやむやで、一つずつ話を進めていきましょうと言っているのに、次から次へと質問を浴びせ、これでは法論にならないと思います。この先の内容を楽しみにしていますので、大埜氏におかれましては、質問攻めで終わらせるのではなく、1つの質問に対し正否がつくまでやってもらいたいです。
 住職という立場であるみたいですので、自分の考えだけを言い放つのではなく、相手の反論をちゃんと聞き、その上でその質問に対する回答、反論をしていただきたいと思います。

 

★森田尚喜・栃木県宇都宮市在中

 妙観講側の的確な回答に対する、薬王寺の不正直な回答には、あきれました。しかし、妙観講側の一貫した「最初の二つの質問を完了させるまで、新たな質問は、受け付けない」という姿勢は、すごいと思いました。
 ここまで言われたら誤りを認めるだろう、と思ったのですが・・・。薬王寺の、度重なる不正直な対応。
 でも、一番最後の、薬王寺の対応の間違いを、的確に、簡潔にまとめた返信は、痛快だと思いました。まともな頭の人が見たら、誰でも、薬王寺のおかしさがわかる、と思います。
 学会幹部の人を含め、邪宗の人は、わからずや、が多いですが、頭に血がのぼって、まともに話ができない人にも、このように対応する、ということを、教えていただきました。 薬王寺関係者や、日蓮宗関係者が、このやりとりを見て、我にかえることを、期待します。

 

 

★関谷靖久・長野県在住

 はじめ、この法論の内容を読むにあたり、最初の2〜3回くらいは日蓮宗の主張や日蓮宗の御書の解釈等、いろいろと学べるものと思い期待していましたが、最初から人格破綻者丸出しの文章に、本当に残念としかいいようがないものでした。
 まず、メール1において日蓮宗住職の大埜氏が「富士系の信徒1200名と会ってきましたが、最初の段階でこの二つの問いに、しっかりとお答えを頂いたことがありません」との発言には、全く聞いたこともないので、胡散臭さを感じ、さらには自ら個人レベルの法論を望んでおきながら「全日本青少年育成協会長 理事長」と名乗るに至っては、よほどの自信家でプライドの高い傲慢な人物であるように感じました。
 そして、1200名もの信徒を退けてきた決定打として、二つの疑難を上げ、法華講員側に逃げぬよう、きちんと回答するよう念押しして言っておきながら、法華講員側から回答及び大埜氏の間違いを指摘したところ、全く真摯に受け止めないばかりか、次から次へと論点を広げる姿勢には本当に腹立たしい印象を受けました。
 また法華講側からは、再三にわたって大埜氏が持ち出した二つの疑難を決着してから次に進めると言っているにも関わらず、「逃げている」「ごまかしている」等々の誹謗を繰り返す狂乱ぶりには、まともに法論などするつもりがない、というか、そうした論理的な思考を持ち合わせていないとしか思えず、大埜氏の文章はネットの誹謗中傷レベルとしか言いようのない、読むに堪えないものであり、頭破七分でおかしくなっていることを痛感しました。

  そして読み進めるほど大埜氏の狂いぶりに悶々とした気持ちになりましたが、メール十において大埜氏の醜態等をすべて網羅し、その誤りと欺瞞に満ちた姿勢を喝破した内容を読んで、じつにスッキリした気持ちになりましたが、やはりこうした人物には人法共に折り伏さないとダメなことが良くわかります。その中でも触れていましたが、大聖人だけでなく日興上人まで持ち出し、法華講員に対して「日興上人を貶める主張です」などと言うに至っては、大埜氏はいつから日興上人を用いるようになったのかと憤りを感じましたが、つくづく救いようのない人物だと言えます。なお今回、
「非学匠は理に詰まらず」
との仰せは、本当にその通りだとづくづく実感すると同時に、邪宗の狂乱ぶりが改めてわかりました。

 

★吉田瑞江・千葉県市川市在住

 この日蓮宗の僧侶の言うことは、全く何を言いたいのかわかりませんでしたが、正宗側の回答を読みますと、本当によくわかりました。それにしてもよく調べもせず、また自分の主張すら前言を翻す、実に節操の無い人だという事。
 これで、よくも法論を挑んでこれたと思い、ただあきれるばかりです。
 しかも、こんな人格で全日本青少年育成協会長 理事長とは、青少年に与える影響を考えると恐ろしい限りです。
 自分の主張を否定されるや激昂したか、何度も同じ指摘?を繰り返すなど、邪教の害毒で狂人になってるとしか言いようがありません。

 

★佐々木寛司・千葉県在住

 日蓮宗僧侶の大埜さんと法華講員の田畑さんの対論を読ませていただきました。
 日蓮宗大埜さんの投げてきた質問二点
①本来十二日のところを十三日と書かれている矛盾は?
②二千二百二十余年との讃文の板本尊と二千二百三十余年と書かれた文章の矛盾は?
 この大埜さんの疑問点は、さすがに僧侶、よく気づいたものだと感心し、確かにそれは質問したくなる内容だと、田畑さんがどのような答えをされるのか注目しながら読ませていただきました。
 田畑さんの答えを読んで、その答えがよくわかりました。すなわち、十二日を、うっかり十三日と書かれただけのこと。
 また二千二百三十余年との讃文も、二千二百三十余年に限るという意味ではなく、仏滅後二千年以降の末法時代に始めて出現された曼荼羅御本尊、と言わんとされていることがよく理解できました。
 大埜さんもこれでスッキリされたかと思いきや、あれ、どうされたんでしょう。延々と続くではありませんか。
 まるで道に迷った者が、正しい道を教えてもらいながら、いやそれは違う、正しい証拠はない、証拠を出せ、とでも言わんばかりです。
 たしか愚人の愚考に、この橋は何でできているのか、木なのか金属なのか。くだらぬ愚問を繰り返しているうちに、橋を渡るという目的を忘れてしまった、との話がありますが、おいおい大埜さん、その質問は橋を渡るため、あなたにとって三途の川を無事に渡るために、この橋は大丈夫かとの質問じゃなかったのですか。
 何か、お母さんを困らせる駄々っ子のような姿を大埜さんに見る思いで、大埜さん自身が自ら「笑うな」と語っていましたが、確かに笑うに笑えぬ哀れさだけが残る内容でした。 呵呵

 

★佐々木充子・千葉県在住

 私は菩提寺が日蓮宗でしたので、興味深く読ませて頂きました。
 しかし、大埜住職の言っていることが理解できず、何度も読み返してしまいました。自分の見解だけ述べてあとは、はぐらかす・・・というような流れで、読んでいて??と思う点がいくつもありました。話も飛ぶし、意味不明な点が多く、読むほうも解読が難しく苦労しました。
 「答えられないなら答えられない、知らないなら知らないと、正直に言え」「ごまかしているだけ」「焦点をはぐらかすのはやめなさい」「都合が悪いことから逃げるのがお家芸」「逃げるのはやめなさい、なぜ逃げるのですか」「知らないのですか」「都合が悪いのですか」「なぜ答えないのでしょうか?逃げずに答えましょう」「適当な言い逃れは見苦しいだけ」という言葉を言う前に、自分がきちんと答えてほしいと思いました。
 自論が正しいと思いこみ、謙虚な姿勢がないので正い判断ができず、気の毒な姿だと思いました。これで人にものを教えていると思うとぞっとします。このような邪宗がはびこるから、まだまだ世間は不幸が絶えないと思った次第です。

 

★佐藤純夫・東京都台東区在住

 今回の日蓮宗僧侶とのメール法論を読ませていただきましたが、読んでいて、この人は本当に正しいことを探求するのではなく、相手を否定しようとしているだけであると感じました。
 いくら分かりやすく丁寧に説明しても、認めようとせず、自分が追い詰められると、論点を変えて、違う方向に話をずらしてしまいます。大御本尊の日付にこだわったり、また血脈相承についても、きちっと照明されても、自らの非を認めないという往生際の悪さで、何回も同じことを繰り返している姿は見苦しい限りです。
 田畑氏に完全に追い詰められているので、焦りが出てきていて、勝負がついているのも気づいていないのか、負けているのを認められなくて悪あがきをしているだけとしか思えません。
 一日も早く日蓮正宗に帰伏することを心から願います。

 

★清水みちる・千葉県千葉市在住

 はじめ僧侶との事だったので、「難しくて私にわかるかな。」 と思いました。読み進めるうちに気分が悪くなり、ムカムカしてきて、腹が立ってきました。
 こんなに自分の間違いを認めない人に、若い人の育成などに関わってほしくないです!
 私も大学生と高校生の子供がいますが、自分が間違ったり失敗したら、謝って、すぐフォローをすることを教えていますし、自分でもその様に心がけています。
 なのに、この薬王寺の住職はチンピラみたいです。自分の言い分ばっかり何度も何度もいってきて、最後の方では「もうウンザリ!」しました。こんな人が後進の育成に当たってる日蓮宗って本当にダメな宗教だな、と思いました。知り合いにも教えてあげたいです。

 

★田中 隆・新潟県新発田市在住

 薬王寺住職大埜氏と当宗の講員との法論を拝見いたしました。
 私自身は正宗信徒でありますが、法論という内容から各々双方の側に立って、相手の主張の意を理解できるように努めながら、自分自身の信条の正邪を正していく立場で読ませていただきました。
 しかしながら、法論相手の大埜氏は、残念なことに大聖人様を尊崇する立場、文献研究などと自ら称しながら、大聖人様の破邪顕正の精神、法門の道理に照らし法の正邪を弁え、自分を従えていくような謙虚な姿勢は全く持ち合わせていないご様子であると拝見しました。
 結果として法論は、大埜氏の独善的思考や思い込みから一方的に主張を相手に強弁し、自浄作用も働かず、都合の悪いことはどんどん論点をすり替えて、自分の非を認めず煙に巻き続けているように思えました。そして最後は、当宗側からその姿勢を指摘されて膠着状態となってしまったことを非常に残念に思います。

  内容については、大埜氏の法論の目的が法の正邪を明らかにするのではなく、ためにする誹謗であることがはっきり理解できました。
 例えば「二千二百二十余年」と「二千二百三十余年」が二通り存在し、疑問に思って然るべきこととも思いましたが、当宗側から、その数字が正像の時代に未曾有という事を意味していうことが示されたことで、私自身も疑問がすぐに解け、何の矛盾もないことが道理の上から納得できました。
 それに対し、大埜氏は、いかに当宗側から説明されても、ただ矛盾していると主張し自身の誤りを認めず強弁し続けました。このように大埜氏は、文意の本意を理解するつもりは最初からなく、或いは知っていたとしても、誹謗の材料となる部分を切り文して探し出し、相手を枉惑することが目的で法論に臨んでいることが分かりました。
 大埜氏には、早く自分自身の誤りを認められ、今回の法論が再開され、いずれ正法に帰依されることを切に望みます。

 

★渡辺  満・茨城県常総市在住

 田畑氏と日蓮宗大埜氏とのやり取りで、あまりにも大埜氏の支離滅裂の発言に呆れました。
 大埜氏は、田畑氏の話を理解しようとの気持ちすらないのだと思いました。
 「有師物語聴聞抄佳跡上」 に関して田端氏は、「大石寺第九世日有上人の述べられた本文に、第三十一世日因上人が、自らの釈を書き加えられたもの」と、大埜氏の読み勘違いを指摘してあげたのに、そのことを認めない大埜氏は不正直者、と誰もが感じたと思います。
 更に、日因上人が、戒壇の大御本尊建立の日を、「十月十三日」とお書きになったのは、「臨時の御失錯」であると説明しているのに、そのことも素直に認めず、それともわからないのか、それとも確信的にやっているとしたら、創価学会の狂宣部と変わらない姿と思いました。
 今回のやり取りでわかりましたが、大埜氏は自らの主張を、的確に、破折されても全く答えないどころか、自らの非を認めず、自らの主張を押し通す姿勢は、まさに邪宗教の害毒そのものと恐ろしく思い、それとは反対に、そのようなわからず屋に対して、わかりやすく対応されてる慈悲ある折伏を、学ぶことができました。       
有り難うございました。 

 

★中森絹代・東京都東村山市在住 

 まず初めに、日蓮宗薬王寺住職に『お前はすでに敗れている』という言葉と『はだかの王様』という言葉を贈りたいと思います。
 法論における取り決めは厳守すべきであり、日蓮宗の寺の代表としての法論はできない(自分の生活ができなくなるのを恐れたか)個人としての法論であると自分で約束したにもかかわらず、日蓮正宗宗門の見解を迫ってきたり、節操が無いなと思いました。
 最初の『有師物語聴聞抄佳跡上』を引いての疑難も三十一世日因上人が書かれた文を、日有上人が述べられた文として決めつけ、読み間違えをしていることを指摘されると、今度は「自分も最初から日因上人のものだと思っている」などと主張を変更してくる。
 また、文中の戒壇の大御本尊建立の日付が「十月十三日」になっている件について、これは日因上人の臨時の御失錯であると説明しているにも関わらず「血脈相承の真偽が問われる」などと論点を外して誹謗に転ずるなど、全く反論になっていません!
 やはり、どこぞやの団体と同じく、都合が悪くなった時に論点を外しにかかる、卑怯者の手口と言わざるを得ません!

  次に第四世日道上人の御伝土代に
 「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅なりしと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」とある文を引いて「二千二百二十余年」と「二千二百三十余年」の御本尊を対比して「二千二百二十余年」とお認めの大御本尊を捨てるのかとの疑難は驚きです。
「正像二千年間に、未曽有(末法に初めて出現)の曼荼羅御本尊」という意味であって、 それ以外の意味など全くないと思います。どう読めばそうなるのか、首をかしげます。
 やはり、これも邪心による曲解なのかと思わざるを得ません!
 それにしても、日蓮宗の看板を背負ったように登場した住職がこれでは、余りにもお粗末過ぎます。せめて潔く負けを認めましょう!

 

★小川亜里沙・東京都練馬区在住 

 日蓮宗との法論のメールを拝見いたしました。
 双方の主張を読み進め、三通目に至る頃には勝敗は誰の目にも明らかであり、日蓮宗側の、負けを認めたくない心情から、次から次へと質問を浴びせてくる手法は、とても無様で、読んでいる側も、何度も辟易しました。
 また、そもそも日蓮宗側が個人として法論したいと言ってきたにも関わらず、日蓮正宗の公式見解を何度も何度も聞いてくるあたり、笑いが止まりませんでした。法論する相手と、資格を間違えています。

 日蓮宗側の主張には、真実を求める姿は全くなく、相手を言い負かそう、揚げ足取りをしてやろうという魂胆で話しているのがみえみえなので、正当な答えをもらっても、自分に不利になる主張と分かればすり替えを行うという、全く、仏教者が聞いて呆れる姿であると思います。
 この、終始意味不明な主張を続けた日蓮宗側に、ここまで真摯に、ていねいな返答を続けてきた日蓮正宗側に賛辞を贈る思いです。
 日蓮宗側の住職は、間違った教えを、宗教に暗い世間一般の人に弘める大重罪を犯し、しかもあろうことか外道の本尊まで祀って拝み、信者に拝ませているのですから、頭破七分してしまうのは当然のことと思います。その頭で考えていることですから、曲がった捉え方になってしまうのですね。こんな状態で自分が幸せになることも、誰かを幸せにすることも、できようはずがありません。本当に、邪宗は恐ろしいと実感せずにはいられません。
 まずは自らの非を認め、最初におっしゃっていたように、大石寺に帰伏し、正しい信仰を会得されんことを願ってやみません。

 

★井桁美也子・京都府京都市在住  

 ちょっとお聞きしたいのですが、この薬王寺の方って、本当に住職されているんですか?
 薬王寺さんのメールを読んでいると、なにか駄々っ子が、無理が通れば道理が引っ込むとでも思っているかのごとく、どんなに間違いを指摘されても、人の言うことに耳を傾けようとしませんよね。
 しかも、いきなり約束を破って三通もメールを送ってきたり、自分から「この法論は寺を背負ってはできない」と言っておきながら、妙観講の方に対しては「大石寺の公式見解なのですね」なんて、あまりにも卑怯ではないですか?そんなこと言うなら、最初から、自分は寺を背負って法論に臨む!くらいのことを言えばいいのにと思います。
 これまで、富士系の信徒千二百名と会って、みんな逃げたと、いかにも自分が勝ったかのように言われていますが、住職さんの文面を見ていて、逃げたと言うより、あなたが相手にされなくなったのではないのか、ただそれだけのことでしょうと、私は思います。
 世間一般的には、お寺の住職さんなどは、偉い方だと思われているものですが、実際には、(少なくとも薬王寺の住職さんは)間違いや捉え違いを素直に認められない、謙虚さのかけらもない、ただの凡人だということがよくわかりました。
 難しいことは、よくわかりませんが、それでも、妙観講側からの返信を読むと、住職さんの読み間違えや、捉え違いをしているところがよくわかり、おもしろいです。
これから、どんな展開になっていくのか、見守っていきたいと思います。

 

★岡野仁美・京都府京都市在住

 日蓮宗僧侶の最初の二つの質問、
一、 (有師物語聴聞抄佳跡上・・・富士宗学要集第一・二五一頁)の矛盾
二、(三師御伝土代・・・富士宗学要集第五・一二頁)との矛盾
と記している質問に対し、当方からの破折で懇切丁寧に回答されているのに、率直に認める事はなく、次々と訳の分からない質問を投げかけてきて、日本語の理解がしがたい、健忘症の相手に対して、「わからせてあげたい。」との思いが伝わってくる破折が本当にすごいと思いました。
 まるで、創価学会員を折伏しているのと同じだな、とも感じました。
 薬王寺の大埜さんには、早く気付いてくれればいいのにと願います。

 

★熊谷陽子・東京都練馬区在住

 大埜氏と法華講員のやりとりを読んでいて、最初に大埜氏がした質問に対して、法華講側がその間違いについて指摘したのに、大埜氏は、絶対に誤りはみとめず、「あれはどうだ、これはどうだ」と違う質問をして論点をすりかえてしまう。法華講側がそれにのらずに、最初の質問の件が終わったら他の事に答えると言っているのに、他の質問を執拗に繰り返し、「逃げるのか」と切り返してくる、その大埜氏の姿が本当に無節操な人だと思いました。
 法華講側が、大埜氏の前言をひるがえした箇所を具体的に発言をあげて、「こうこうこうだからちがうでしょう」と指摘しているのに対して、大埜氏は、何も具体的にあげることなく、ただ「大丈夫ですか?」とか言ってくるだけで、本当に相手の言っていることを理解しようとしていないし、最後のほうは大埜氏は自分でも何をいっているのか、わからなくなっているように思いました。

 大埜氏だけの発言を読んでいると、支離滅裂すぎて、何をごまかして、すりかえているのかというのが、わからなくなってくるのですが、 法華講側が、大埜氏の発言をひとつひとつあげて、前言をひるがえした箇所や、すりかえた箇所を指摘してくださったので、それを読んで大埜氏のどこが間違っているのかが よく理解できました。
 特に最後の回答を読んで、本当に胸がすっきりしました。こういう人が青少年の育成協会長だと、本当に青少年に申し訳ないと思いました。
 もっと、自分の誤りを素直に認める、潔さをもって、慢心をいましめて、謙虚になってほしいと思います。

 

★高橋亮・静岡県富士宮市在住

 法論が行なわれると聞き、本当に楽しみにしていましたが、薬王寺住職には本当にガッカリさせられました。法論というのは、本気のぶつかり合いの中で正しい教えについて、より深く明らかになっていくもの、と楽しみに期待していたのですが、ところが実際には薬王寺住職のあきれた態度によって、せっかくの法論が台無しになってしまったと感じられたからです。
 薬王寺住職に言いたいことはたくさんありますが、まず薬王寺住職は法論のルールすら弁えていないか、あるいは無視していますね。特に、「議題を決めたら、それについて論じ合う」という最も基本的なルールを破っています。その事を何度指摘されても最後まで徹底して改めないのですから、残念と言うほかありません。
 もし、本当に自説に自信があるのであれば、キチンとした決着をつけるべく、むしろ論点から外れないように、徹底的に拘って話を進めて行くはずです。また、余計な事を言って非を責められるような事がないよう、むしろフェアに論を進めていくはずです。
 その点、妙観講側が、白熱した議論となっても、終始、丁寧に整えた言い回しで、分かりやすい文章となるよう努めているのに対し、薬王寺住職の文章は、まず意味が分からないし、結論が出る前に意図的に論点をスリ替えてごまかしていってしまいますし、その上「○○でしょうに。」という礼節を欠いた言辞の連発で、内容以前にムカムカしてきました。

 妙観講側は、このような相手に対しても、腹を立ててしまうことなく、何とか有意義な法論にしようと、議論を立て直そうとしていますが、薬王寺住職がまたはぐらかす、という事に終始しています。
 これは薬王寺住職の、ワザと法論をぶち壊して逃げる作戦だったのか、あるいは本当に法論の進め方や相手の言っている事すらも分からないのか、いずれにしても残念です。
 そんなことで、当初、ワクワクして推移を見始めたものの、薬王寺住職のあまりの低レベルかつアンフェアなやり方に、次第に腹立たしく、どんどん気分が悪くなっていきました。
 薬王寺住職、あなたのせいでこんな事になり、本当に残念でなりません。しかし見方を変えれば、所詮日蓮宗とはこの程度のものなんだと実態が知れて、また邪宗信仰故の頭破作七分の果報をまざまざと見せてもらえた、という事になりましょうか。そして何より、やはり日蓮正宗こそが正法なんだと実感しましたので、私にとって、その点では有意義でした。
 薬王寺住職さん、このまま終わるのではあまりに無惨ですから、この後もう少しまともな議論が再開されますよう期待していますね。(もう無理かな?)

 

★吉尾和美・東京都杉並区在住

 正直、最後まで目を通すのに、ものすごく時間がかかりました。
 まず、一読して感じたことは、「大埜という人は僧侶というけれども、本当に僧侶な
のだろうか。ガラの悪い、何かとインネンを付けたがるようなおじさん、と変わらない
感じだ」ということと、「法華講員(信徒)の方がとても礼儀正しく、一つひとつのこ
とに丁寧にきちんと論陣を張っているな」ということでした。
 そして、二回目に目を通して思ったのは、「大埜という人の主張がどんどん違う方向
にいっている。それは、法華講員から間違いを指摘されたのに、全く認めようとしない
、とても不正直な、人間として本当に恥ずかしい性根があるからだ」ということと、反
面「法華講員の言わんとすることは、とても明快で、論理的で、筋が通っている」とい
うことでした。
 やり取りの二回目あたりから、大埜氏の論調がとても感情的になってきたのがアリア
リとわかりました。そして、回を重ねれば重ねるほど、法華講員は、全く変わらずにと
ても冷静に根拠をあげて(時に厳しい言葉で諫めていても)誠意をもって一つひとつの
ことに答えているのに、大埜氏の方は、どんどん錯乱状態になっていったように思えて
なりませんでした。

 何か、日本語としても意味がよくわからないところがいくつもあったり、また、「そ
もそも、あなたが質問したことは、そういうことじゃなかったよね」「これは、前回、
きちんと説明されていたのに、どうしてそうなるの?」「あれ、そんなこと言ってなか
ったんじゃない?」「揚げ足取りは、あなたでしょ?」と、読みながら一人で何度もつ
ぶやいてしまいました。
 ハッキリ申し上げて、大埜氏の文章を読むのは苦痛でした。法華講員から指摘された
ことに対して全く反論になっておらず、ただ大仰に構えて、相手を見下しているような
、小馬鹿にしているような、そんな本性が文章に表われていたからです。
僧侶というからには、もっと教えの上から、また、慈悲の上から、信徒に対して諭す
ような、そういうやり取りになるのかなとも思いましたが、全く違いました。幻滅しま
した。
 もしかして、自らの間違いを指摘されるなどと夢にも思っていなくて、それを一番最
初にやられたものだから、相当のショックを受けて、本性が顕わになった、ということ
なのでしょうか。そうだとしたら、僧侶とは言えませんね。本当に、人間として醜い姿
であると思わざるを得ません。こんな人に、青少年の育成になど関わってほしくありま
せん。

 それに対して、法華講員の文章は、毅然としたものを感じ、何か心が洗われて清々し
かったです。とくに一番最後の内容には、本当に「全てそのとおりだ!」と、心からス納得しました。
 大埜氏は、素直に認めるべきです。
「最初に質問した一問目は、自らの資料の読み違えがあり、また、大騒ぎするような
内容ではなかった」「二問目については、自らの解釈が間違っていたが故の、トンチン
カンな疑難だった」と。
 そして、法華講員の方には、本当に敬意を表します。私だったら、きっと途中で音を
あげてしまっていたであろう相手に対して、その挑発に乗らずに、最後まで誠意をもっ
て、根拠を挙げての論陣を張っていかれたのですから。
 今後、さらにやり取りが続くようでしたら、大変だとは思いますが、ぜひ、正義を明
らかにしていただきたいと思います。

 

★齋藤仁美・東京都清瀬市在住

 妙観講員対薬王寺住職の法論、最後まで読ませていただきました。
 薬王寺側のかなり偏った解釈と激しい思い込みにより、まともな法論とならなかったことが残念です。薬王寺側が回を重ねるにつれて本来の疑難から脱線していき、次々と疑難のような悪口をあげている様子を見ると、錯乱状態となって相手を追い込もうとしている様子が伺えます。まるで子供が大人に太刀打ちできずにジタバタしているようにも見えます。
 最初の疑難については、妙観講側が丁寧に読み方の誤りを指摘しているにも関わらず、薬王寺側が絶対に誤りを認めない様子は、読解力、理解力がかなり欠如しているか、勝他の念に取り憑かれ、素直な心を失った哀れな姿だと感じます。
 薬王寺側が日有上人の文として義難を振りかざしておきながら、その誤りを指摘されるや否や、途中で、日因上人の書だと思っていたとすり替えるあたりは、根性が悪く、これではまともな法論にはなりません。
  さらに正式な法論の場において、他宗の本や偽書を持ち出すあたりは、まともに法論をする気がなく、相手を貶めるためなら何でもあり。との歪んだ姿勢がみてとれます。日蓮宗における本尊雑乱の害毒とはいかに恐ろしいものかと感じざるにはいられません。

 薬王寺側は勝他の念、日蓮正宗への憎悪が強過ぎるために、冷静な解釈ができないようですが、今一度冷静になって宗祖のお言葉に耳を傾けて頂きたいものです。妙観講側のメールの最後の辺りに
宗祖大聖人は
> 「諸宗は本尊にまどえり」(開目抄)
> と、諸宗の本尊雑乱を指弾せられ、さらに
> 「本尊とは勝れたるを用ふべし」
> 「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云は
> く、法華経の題目を以て本尊とすべし」
> 「法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」(本尊問答抄)
とありましたが、これらの宗祖の仰せをもって、本尊雑乱の日蓮宗の誤りがはっきりしたのではないでしょうか?内道と外道の違いから勉強したほうが良いかと思います。妙観講側が法論するには100年早いと言われている意味がわかります。

 まずは初めにあげた二つの義難に決着をつけてから、さらに妙観講側の疑難に薬王寺側が応戦していただきたいところですが、膠着状態とのことで残念です。


★内山 昇・さいたま市在住

 この法論の話しを伺い大変楽しみにしていた一人です。
双方の内容を読み進めましたが、これでは法論の体をなしておらず、残念に思う次第です。
 この時点で薬王寺住職の負けです。
 法論と言うからには、相手の設問に対して答えるもの。これでは法論などと呼べるものではなく、論点ははぐらかし、根拠を示すどころか、感情のまま思ったことの羅列に終始し、あげ足とりにもならぬ支離滅裂な論法で、全く設問の答になっていないことは、一目瞭然でした。
困ったものです。
 何故か、と考えてみましたが┈まともに論争すれば、誤りを指摘され、反論不能になることが判っていたのではと、思いました。
 それでいて、自分は大した者だと思い込み、慢心を起こしている。本当に、恥ずかしい限りです。 一度、精神科で見てもらってはどうか、と提案します。
 おそらく、自らの誤りを暴露されて、大変感情的になり、それを押さえて平静を装って、この文章を書いたのでしょう。 今後、まともな論争となるなら、ぜひ続きを切望します。