|
次に、正本堂建立をめぐっての、池田大作の発言と当時の御宗門の見解について、述べてみましょう。
まず、池田大作の発言を挙げます。
「三大秘法抄≠ノ『時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり』との大聖人の御聖訓がございます。その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます。」
(昭和39年4月・大客殿落慶法要での池田発言)
「日蓮大聖人の三大秘法抄の御遺命にいわく『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり』云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要。」
(昭和43年・着工大法要での池田発言)
昭和39年の時点で、創価学会による折伏が飛躍的に進んでいた状況を背景として、池田大作は、『三大秘法抄』の御金言を挙げ、「広宣流布が達成されて本門戒壇が建つべき時がついにやって来た」と述べています。
さらに、昭和43年の正本堂着工法要の挨拶の中で、やはり『三大秘法抄』を挙げて、「正本堂こそが、三大秘法抄等に述べられる広宣流布達成の暁の本門の戒壇である」と述べています。
つまり、池田は、「広宣流布の達成が近い、だから本門戒壇を建てるのだ」と発言しているわけです。
こうしたことを受けて、時の御法主・66世日達上人猊下は、学会及び池田の信心を信頼されて、このまま折伏が進展すれば、まさに近い将来、広宣流布が達成されるかもしれない、との大きな期待を抱かれました。そして、その期待の上から、以下のようなお言葉を述べられたのです。
「会長池田先生との談話の時に、私が、『すでに広宣流布しておる』と語ったら、会長は、『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである。」
(『大白蓮華』昭和40年1月号・日達上人お言葉)
このように日達上人は、昭和39年から40年の時点で、「もうほとんど広宣流布が達せられる」と御覧になっています。
それは、当時の創価学会が発表していた世帯数が、600万世帯から700万世帯になんなんとする状態で、日本国3000万世帯の3分の1にあたる、1000万世帯に迫ろうという勢いでした。一国の3分の1の人が正法に帰依すれば、その国は仏法流布の国といえる(これを経典では「舎衛の三億」といわれている)ということからすれば、この学会の公称世帯数を信ずる限りにおいては、日本国の広宣流布は近い、と考えられますので、日達上人も、広宣流布近きにあり、と期待されるお言葉を出されたといえましょう(※ところが、この学会の世帯数の数え方は、実際には一家5人の中で1人しか信心していなくても、御本尊を下附すればその1世帯5人は学会信徒である、という数え方をしており、その上、退転者や死亡者を差し引かない、累計下附数であったため、現実には広宣流布といえる状態ではなかった)。
昭和40年にも次のようなお言葉があります。 「ただいまお聞きのとおり、誰も想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、この立派なる成果となったのでございます。」(昭和40年10月・学会本部幹部会での日達上人お言葉)
日達上人は、正本堂の御供養として350億円という巨額の御供養が集まったことを指して、大聖人の「富士山に本門寺の戒壇を建立せよ」との御遺命のとおりに、池田が正本堂建立を発願してこれだけの御供養が集まった、と仰せられています。
日達上人がこの時点で「もう広宣流布が近い。正本堂こそが大聖人御遺命の富士山の本門寺戒壇になるかもしれない」と、大きく期待を抱かれていたことが、このお言葉の中にも拝せられます。
また、昭和43年には、 「この正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(『大白蓮華』昭和43年1月号・日達上人お言葉)
と、正本堂が完成する時には広宣流布が達成されているであろう、とも仰せられています。
これらはいずれも、日達上人が、学会及び池田大作の当時の信心を信頼されて、広宣流布が近い将来達成される、ということを大いに期待されて仰せられたお言葉であります。
それが昭和45年になると、「広宣流布達成はまだ無理かもしれない」という御見解が、日達上人お言葉の中に拝せられるようになります。
「戒壇の御本尊在(まし)ます処は、すなわち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄あるいは一期弘法抄の戒壇で、もちろん事の戒壇であるけれども、そこにまつるところの御本尊が、今この処にある。この御本尊様は戒壇の御本尊である。ゆえに、この御本尊おわします処がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、あるいはもっと立派なものができるかもしれない、できたとしても、この御本尊まします処は事の戒壇である。」(昭和45年5月・寺族同心会での日達上人お言葉)
この時点で日達上人は、正本堂が広宣流布達成の暁の究極の戒壇だとは仰せられず、 むしろ、 その正本堂よりも後にさらに立派なものができるかもしれない、として、正本堂が建った時点ではまだ広宣流布ではないかもしれない、という旨を示されているのです。
つまり、正本堂完成の時点での広宣流布達成は無理かもしれない、という翳(かげ)りをお感じになり、 正本堂が直ちに御遺命の戒壇とはならないかもしれない、とのお考えを示されているといえましょう。
さらにもう一つ大事なことは、このお言葉の中で、「大御本尊御安置の処が事の戒壇である。事の戒壇とは、広宣流布が達成された時に初めてできるというものではなく、大御本尊様が安置されている処はすでに事の戒壇である」と明確にお示しになっていることです(※この点については、後に詳述)。
ともあれ、このような経過の上で、昭和47年に正本堂が完成するのであります。
|