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2006年01月25日
第二章 魔仏・池田大作の実像(1)
自作自演だった現代仏陀論
創価学会問題の根底に創価王国構想≠ニいう天下取りの野望があることは、すでに述べたとおりですが、ここで、その野望の主・池田大作の実像について触れておきましょう。なぜなら、今日における創価学会問題の一切の元凶は、池田大作に帰着するからです。
まず、学会内における池田崇拝(すうはい)ですが、これは、全(すべ)て池田自身が仕組み、自作自演して築いてきたものです。
池田は、学会員が仏を崇拝する(日蓮正宗の教えでは、末法の仏は日蓮大聖人ただ御一人)、その信仰心を巧みに利用して、
「御本尊様は口をきいてくださらない、また御書もありますけれども口をきいてくださらない。(中略)全部、牧口先生、戸田先生のお力であります。両先生とも偉大な仏様でございます」(奈良十周年記念勤行会・昭和五十一年二月十五日)
「戸田先生は仏さまであられます」(昭和三十六年発行『会長講演集』第四巻)
「仏さまはウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです」(同年発行『会長講演集』第三巻)
「妙法への帰命(きみょう=帰命とは、仏法僧の三宝に対してのみ用いる語)という理念は、具体的な実践でいうならば、希有(けう)の師への帰命、すなわち戸田城聖への帰命でなければならない」(『人間革命』第三巻)
「私から幹部の任命を受けることは、記別(きべつ)を受けること(記別とは、仏が弟子の未来の成仏を証明すること)です。これなくしては法華経を持つといえども無益である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ『霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色となる』との御金言のごとく、幸福境涯になれるのです」(『前進』昭和四十二年二月号)
「私の構想は、大聖人の仰せと寸分狂っていない」(『前進』昭和四十一年八月号)
「私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう=境智冥合とは、信仰者が仏と一体になる意)していなければ…」(『前進』昭和四十年六月号)
等と、自らを生き仏≠ノスリ替える指導を繰り返しました。
そして、古今の多くの独裁者がそうであったように、池田も、実際の歴史を塗り変え、自身の数多くの神話作りに励んだのです。中でも、学会員なら誰でも知っており、かつまた、活字となって証拠が残っているものとして、かの有名な入信神話があります。
あの入信神話もデッチ上げ!?
すなわち、池田は、
「昭和二十二年の八月十四日に戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら…』と信仰の道を歩む決意をしたのである。さらに、話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦時中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず、毅然(きぜん)として節を曲げずに、昭和十八年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも、己れの信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった」 (『私の履歴書』)
と言います。そして、さらに池田が戸田会長の話を聞いているうちに、奇跡としかいいようのない神秘的な現象が、突然、二人の間に起こった、として、
「それは、私がいつかこの人の後を継ぐだろう、継がなければいけない。私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感でした。それまで、そういう運命的な直感などむしろ軽蔑(けいべつ)していた私が、どうして、ああいう気持ちに襲われたのか、いまもって不思議ですね。
しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかったんですが、私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いま、オレはついに後継者とめぐりあった――と、ひと目で直感されたというんですよ。
はじめて会って三十分もたたないうちですが、戸田先生と目が合ったとき、私はそのこと――先生がなにを感じられたか――をハッキリ知りました。先生のほうも私の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださったわけです」(五島勉『現代の英雄』で取材に答えて)
と言うのです。さらには、
「その時(牧口、戸田の出会いの時)、戸田城聖が十九歳で、牧口常三郎は四十八歳であった。いま、戸田は、四十八歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田のこと)は、十九歳だといった。(中略)いま牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、四十八歳の彼の前に、出現したのである」(『人間革命』第三巻)
と言い、側近幹部まで使って、
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに、仏法の不思議!」(『聖教』昭和三十五年五月十三日)
などと言わしめています。
この、池田の入信にまつわる話は、多くの学会員の間で、「すごいわねェ」「やっぱり池田先生は、会長になるべくして生まれてきた御方なのよ」等々と、ありがたい神話として信じられてきました。
しかし、呆(あき)れたことに、これらは全て池田がデッチ上げた嘘(うそ)だったのです。以下は、会長就任(昭和三十五年)以前の池田の発言です。
「私が信仰したのは丁度今から十年前の八月二十四日です。(中略)折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。(中略)私はそこで教学部長(小平芳平=当時)から折伏されたんですよ」(『聖教』昭和三十二年十月十八日)
「南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて、信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。(中略)それでお題目をとなえろということでしたが、恥ずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分間ほど、いりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり押しつけました。家に帰っても三日間おがまずに放っておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。(中略)それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へ行ったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
これらの発言に加えて、もう一つ、「まことに仏法の不思議!」とかいう会長間の年齢の一致ですが、これまた無慙(むざん)な嘘で、牧口・戸田の出会いは四十九歳と二十歳、戸田・池田の出会いは四十七歳と十九歳が実際である(いずれも満年齢)、ということも付け加えておきましょう。
このように池田は、自らを学会内で絶対化(本仏化)するために、史実を塗り変え、恥知らずな嘘を重ねて、虚飾に満ちた入信神話を捏造(ねつぞう)したのであります。その、あまりの厚顔さは、ジャーナリストをして、こう言わしめました。「池田の入信神話は、デマの発生と肥大に関する調査・研究に、貴重なデータを提供できるほどのものであろう」と。
絶対服従の上で傍若無人に
かくて、学会内における池田の絶対化・本仏化は、ほぼ全末端にまで浸透し、
「国会前で、会長が死ね≠ニいえば死にましょう。生きろ≠ニいえば生きましょう」(『会長講演集』十二巻)
という姿勢こそが模範的学会員とされ、学会員は、池田の声を聞いただけで、老若男女の別なく感極まって泣き出すほどの有り様となりました。
現に、平成三年十月六日に放映されたTBS「報道特集」で、学会の文化祭の模様が映し出されましたが、両手を上げてパフォーマンスする池田に、おびただしい数の若い男女が、顔をグシャグシャにして「センセーッ」「センセーッ」と、思いっきり泣き喚(わめ)きながら手を振る異様なシーンがあったのを、記憶している人も多いでしょう。
かつて、こうした光景を目のあたりにした外国人識者などは、「こうした大衆のエネルギーと盲目的従順の表明に慄然(りつぜん)とした。第二次世界大戦当時を憶(おぼ)えている者にとっては、こうした光景はけっして忘れられるものではない。私の心に、ナチスの青年大会のニュース映画の一コマや、文明を絶滅してしまった全体主義の光景が、ちらっと浮かんでくる」と述べていますが、まったく、その直感的危惧(きぐ)は的(まと)を射ている、というべきであります。
こうした数多くの会員の絶対的服従の上にあぐらをかいて、さらに池田は増長し、自分が口をつけて食べかけたメロンを「さあ、いただきなさい」と側近幹部達に下げ渡したり、食べ終わったウドンの残り汁に真っ赤になるまでトウガラシを振りかけ、故・北條浩氏(四代会長)に「飲みなさい」と下げ渡して、その忠誠心を試みたりといった、常軌を逸(いっ)する傍若無人(ぼうじゃくぶじん)ぶりが散見されました(元学会員の証言)。
また、歴とした会合の席上、肺病を患(わずら)っている幹部をさして、
「杉本君(杉本芳照総務=当時)はばかに痩(や)せている。生気がない。(中略)肺病を直すのは護符を頂き、夫婦生活をやめて、十一時以内に帰る。これをやれば直るよ。やりすぎだ! 諸法実相で姿を見ればわかるよ。肺病にも、先天的な体、青木さん、山川とか結婚前になるのが多い。顔の皮膚が透き通った様な感じでわかる。それ以外はやりすぎだ! なさけない顔だ」(第二十一回社長会・昭和四十四年二月十九日)
等と、下卑た言葉を連発し、平気で幹部の面目を潰したりもしました。
一般社会にあってはとうてい考えられないことですが、学会の中では自分が絶対的支配者である≠ニの驕(おご)りが、池田にこうした言動をとらせたのでしょう。
池田の傍若無人な言動は、他にも数多くありますが、そのうちの代表的なものを次に挙(あ)げておきましょう。
「全員が『勝つ』と強く決めていけ! 勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ! 私は恐れなど微塵(みじん)もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ! 強気で勝つんだ! 強気、強気、強気…でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴(どな)っていけばいいんだ!(中略)反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ!」(平成元年三月十二日・埼玉指導での池田大作発言)
「威張りくさりやがってねェ、ほんとにブン殴(なぐ)って(笑い)、あのー、まぁ日顕(上人)なんか、その(イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金(はりがね)でゆわえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね。暴、暴走族じゃないけどさァ。」(青年部幹部会での池田大作発言・平成四年十二月十三日)
「糸満平和会館て、これ名前変えた方がいいんじゃないかな。……ウーマンっぽい、ウーマンっぽい、糸満なんてウーマンっぽい。(※会場はあまりウケない)……駄目(だめ)か、もっといい、ね、いいのは、キンマン、いや、イトマン、キン○○コだよ(会場爆笑)。」(第六十八回本部幹部会での池田大作発言・平成五年七月七日)
なんと、朝の勤行は0分〜10分!!
また、このような池田に、自ら身を低くする敬虔(けいけん)な信仰心など、あろうはずはありません。
学会が裁判の資料として提出した、池田大作の行動記録≠ノよれば、その無信心な実態が浮き彫りにされています。
たとえば、昼近くに起床して風呂に入った後、「一三時三〇分 勤行」「一三時四〇分 研修所発」
とか、あるいは、
「一一時〇〇分 勤行」
「一一時〇〇分 離れに行かれる」
とか、はたまた、
「一四時〇四分 勤行」
「一四時一〇分 終了
おそば」
等々、要するに、池田の朝の勤行というのは、ほとんど、六分、十分、あるいは〇分(!!)といった、呆れ果てた勤行(というより、怠行〈たいぎょう〉とでもいうべきか)なのです。
このような池田の有り様では、総本山の大法要の途中、すぐに足がしびれて中腰になっていたのも無理はありません。
また、池田が、大勢の会員を率(ひき)いて短い勤行をした時など、呆れたことに、池田の前にある経机の上には、常に茶托(ちゃたく)と茶碗が置かれていました。つまり池田は、茶を飲みながら勤行をしていたのです。
経机を卓袱台(ちゃぶだい)の代わりにして、茶を飲みながら勤行をする――池田の行体の弛(ゆる)みぶりには、開いた口が塞(ふさ)がりません。
かくのごとく信心なき池田ですから、平気で御本尊模刻などという大謗法を犯しますし、護符=i前掲の社長会での発言中にもあり、これは、大聖人の相伝による御秘符≠真似(まね)て、池田が勝手にでっち上げた代物。大聖人とはなんの関係もない)などという怪しげなものを造って、会員を騙(だま)したりできるのです。
以上を見ただけでも明らかな池田大作の実像――それは、恐るべき慢≠フ固まりであり、信心などカケラもない姿であるといえましょう。(つづく)
投稿者 myokanko : 2006年01月25日 12:57