2006年06月02日
E 第三章 創価学会の隠された真実師
異流義めざした牧ロ氏――獄死は「誹謗の罪」
さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在しています。それは、逮捕後の牧口氏に対する、特高警察の尋問調書です。その中で牧口氏は、
「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌(はま)った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」
として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのです。
この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠(いきょ)するところは、日蓮正宗に相違なきや?」との質問をしています。これに対し牧口氏は、
「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」
などと答え、重ねて、
「学会は飽迄(あくまで)も、日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に、特異性があるのであります」
と強調しているのです。
なんたることでしょうか。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、個々の学会員は正宗寺院で御授戒を受けていても、学会そのものは一個の独自な在家宗教団体である、と意義付けていたのであります。
これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたことは間違いありません。
また、これを見るならば、今日の池田創価学会が長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の在家教団(池田教)を指向してきた原体質は、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽(ほうが)していた、と言わざるをえないのであります。
結局、投獄された牧口氏は、一年有半を経た昭和十九年十一月十八日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じました。そして、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長は翌年七月、釈放されましたが、創価教育学会は半ば壊滅(かいめつ)同然の状態となっていました。
こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わったのです。
が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流義思想の実態や、日淳上人に対する吊るし上げと背反、偏(かたよ)った布教の在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難、などと呼ぶことは、とうていできません。
『佐渡御書』には、
「善戒を笑へば国土の民となり王難に値(あ)ふ。是(これ)は常の因果の定まれる法なり。
日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山(かざん)に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下(くだ)して嘲弄(ちょうろう)せし故に、此の八種の大難に値へるなり」
(御書五八二頁)
と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗(ひぼう)した罪、と明かされていますが、獄中にあっての戸田理事長は、この御金言の厳しさを我が身に引き当てて感じたのでしょう、
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」(前出「獄中書簡」)
と述べて僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧口氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧(あいまい)に、
「牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう」(『創価学会の歴史と確信』)
と述べています。
仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然(りつぜん)とさせられるではありませんか。
また、これら獄中書簡等を見るかぎり、戸田理事長は、師たる牧口氏の謗法に気付いていたものと思われます。
現に、出獄の二日後(二十年七月五日)、戸田理事長は
「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫(わ)び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任(まか)せいたしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)
と、お誓いしたとのことです。
さらに戸田理事長は、学会再建に着手するにあたり、まず牧口氏の根本的誤りを払拭(ふっしょく)する(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷つけることなく、むしろ顕彰しながら行なう)ことから始めました。その事実は、かつて池田大作が、迂闊(うかつ)にも『人間革命」第一巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかです。
「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味(しゅうみ)を帯びてくる。
さらに、大善生活の実践のために大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。
――ここに摧尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射して来るようだ。
戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。……しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」
遠回しな表現ですが、要するに、牧口氏は自説の「価値論」を第一とし、「価値論」を実践証明するための手段として、日蓮正宗の大御本尊を利用する格好となっており、これが摧尊入卑(尊極な教えを摧〈くだ〉いて、低下な教えの中に取り入れ、卑〈いや〉しい教えを尊〈とうと〉く見せかける謗法行為)に当たっていた、というのであります。
日蓮正宗への信心を持っていた戸田二代会長
かくして戸田会長は、牧口氏の「摧尊入卑」という根本的な謗法を学会の中から取り除きました。
そして、壊滅状態であった学会を、勤行・教学・登山・折伏・御供養等の徹底指導によって再建、わずか十年のうちに七十五万世帯を突破せしめたのです。
その戸田会長の根底には、少なくとも先代・牧口氏とは異なり、日蓮正宗の仏法を絶対とする信心があったものと思われます。
それは、以下のような戸田会長の指導を見れば、明らかであるといえましょう。
「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、非常に光栄とするものであります」(昭和三十年十二月十三日、関西本部入仏落慶式)
「学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。
むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳を損なう者は当然そうなる。
どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである」(『信者の大精神に立て』昭和三十一年一月二十九日)
「ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましを願い、畑毛の猊下のお出ましを願って、われらとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間に、本当に功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。
それでは、わたくしが導師となります。(題目三唱)」(昭和二十九年五月三日、創価学会第十回総会)
「日本中にいる一般の坊主は、全然不用なものである。(中略)二十の扉の語を借りれば、『動物』という題で、陰の声が『寺に住む動物の親分』ということになる。すなわち高級乞食である。
かかる何十万の動物の中で、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人のなかでも立派な僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。
かかる、立派な教団でも、身近に住む信者はありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを唯一の願いであるとしている猫坊主が多い≠ニ攻撃して、功績の方を見ない。(中略)かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖入御出世の御本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである。
わずか百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の『出世の御本懐』たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護したてまつって、七百年間、チリもつけずに、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。(中略)もったいないではないか。神々(こうごう)しいではないか。ありがたいではないか。……かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿たる功績こそ、たたえねばならぬことである。この上に、大聖人の御教義は、深淵(しんえん)にして、厳博(げんぱく)であって、愚侶(ぐりょ)の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか」(「僧侶の大功績』昭和二十六年六月十日)
「(戸田会長は)決然と立って、『御供養することは、信徒の務めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、はじめからそんなことを言っておるのは信徒の努めを怠(おこた)っておるものである。信徒は供養することによって利益があるのである。御利益は供養することにある。もし、そのお金を不正に使ったならば、それは使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。信徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また大聖人の仰せではないか』と叫んだのである」(昭和四十年七月十一日『大日蓮』二三四号)
以上のように、戸田会長は、その心底においては日蓮正宗を信じ、赤誠の御奉公を貫こうとしていたものと思われます。
しかし、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」
(御書九八六頁)
との御金言のごとく、この戸田会長の志を蝕む魔の用(はたら)きが忍び寄っていました。それは、親以上に敬慕した牧口常三郎氏を獄死させてしまった、との無念の想いと、講義中にまでウィスキーを呷(あお)り続けるほどの、並外れた飲酒の弊害(へいがい)であった、といえましょう。
大酒の弊害か!?正見・正念を見失う
ちなみに、戸田会長の飲酒がどの程度であったか、NHKの元ディレクター吉田直哉氏は、取材した時の様子を次のように記しています(※場面は、戸田会長が法華経講義に臨〈のぞ〉む定刻の直前です)。
「想像もしなかったことばかりが起きた。
『グイッとあけな、グイッと』
『……いえ、これから撮影……。仕事中ですから』
『なにィ?それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ』
黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にするのも勇気が要(い)った。尋常ならぬウィスキーなのだ。
こんな荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコップのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しビールを垂(た)らして割って、机の上に溢(あふ)れさせるのだ。その濡(ぬ)れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押してよこして、飲め! とこんどは大声の命令である(中略)
ひとくち飲んで不覚にもむせると、
『グイッとあけな』
と眼がすわっている。ビールをあおりながらウィスキーをストレートでのむのを、アメリカではボイラーメーカーと呼ぶ、というのはのちに得た知識だが、ビールとウィスキーの量がこの場合逆転しているのだ。いかに教祖でどんな酒豪でも、酔わないわけがない。(中略)
そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ち上がった。ネクタイは右の方にはね上がり、ズボンは下がってシャツの裾(すそ)が半分以上出て、みるからに酔漢(すいかん)の姿である。」
これでは、仏道を正しく修していくための正見・正念が持(たも)てるはずがありません。
仏経典には、飲酒による弊害が種々説かれていますが、その中に
「瞋相(しんそう)を現ず(他に対して、むやみに怒りを顕〈あら〉わにする)」
「闘訟(とうじょう)を増す(他に対して、諍〈いさか〉い、喧嘩〈けんか〉を吹っ掛けることが増える)」
「智慧減少す(物事の理非曲直〈りひきょくちょく〉を分別する智慧が損〈そこ〉ねられてしまう)」
等とあります。
まさに戸田会長は、尋常ならざる大酒を浴びるように飲む中で、智慧減少≠オ、「牧口会長が獄死したのは、弱腰だった日蓮正宗宗門のせいだ」「学会がこれだけ頑張っても、非協力的な僧侶が多くてけしからん」等といった瞋相≠現じ、また、その闘訟≠フ思いをどんどん暴走させてしまいました。
その結果、戸田会長率(ひき)いる創価学会は、「狸祭り事件」と呼ばれる騒乱事件(これは、立宗七百年祭の大法会の最中、総本山境内で多数の学会青年部が、一人の老僧に集団で暴行を加えた事件で、警察も出動する騒ぎとなった)を引き起こしたのをはじめ、機関紙上で宗門に対する揶揄(やゆ)・中傷を繰り返すに至ったのです。
以下に、当時、戸田会長が自ら論述したものの一部を、紹介しておきます。
「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信にたたれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が、国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌(りゅうしょう)のためには国家諫暁(かんぎょう)よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされた(略)
折伏もせず、正法の流布に身命を捨てえない坊主は、じつに困ったものである。この考えにまかせて、学会人は身命をささげての折伏行をなしていることは、申すまでもないことである」(昭和二十六年八月十日『創価学会の歴史と確信』)
「軍部に脅(おど)されて梵鐘(ぼんしょう)を取り上げられ、軍部が消えたら又作り出す。奥さんの前でヘイヘイして、居なくなればつまみ食いする女中のような坊主だ」(昭和二十六年七月一日『寸鉄』)
「御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね」(同年七月十日『寸鉄』)
「折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばることばかりを知っとる坊主」(同年十二月十日『寸鉄』)
「正宗信者に信心が足りない、旧信者は特に足りない、僧侶の中に特別に足りぬ者がいる様に見える、国家の救済をどうする気だ」(昭和二十七年七月十日『寸鉄』)
「平左衛門の後身、宗会議員と現る。仏恩広大にして、逆縁の輩(やから)、今大聖人の仏法の中に生まれて、唯一人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし」(同年七月二十日『寸鉄』)
「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」「乞食坊主」「化物坊主」(同)
「仏様でもないくせに仏様のような顔をして威張る坊主が気に入らない」(同年十二月一日『寸鉄』)
「坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか」(同年十二月十日『寸鉄』)
等々――。
これらの戸田会長の論調は、日蓮大聖人が『四恩抄』に
「譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり」 (御書二六八頁)
と戒められているように、正法受持の御僧侶を「失あり」と言って責め立て悩ませる、まさに、仏法の大灯明を滅せんとする重罪である、といえましょう。
ただし、戸田会長は、大御本尊と血脈に対する根本の信≠ニいう一点で、何とか日蓮正宗に繋(つな)がり止まっていました(それ故、前述「狸祭り事件」においても、時の御法主・第六十四世日昇上人から誡告を受けて謝罪文を提出し、随順を誓っています)。
そして生涯をかけて、七十五万世帯の大折伏と、日蓮正宗に対する外護を成したのです。
以上に見てきたように、創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったとはいえ、牧口時代には、異流義の在家教団という路線を指向し、戸田時代には、大功績を上げる一方、宗門軽視・僧侶誹謗という誤った体質を孕(はら)んでいました。
日蓮大聖人は、
「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七頁)
との道理を御示しですが、牧口・戸田の後を継いだ第三代会長・池田大作は、牧口時代の在家教団路線や戸田時代の宗門軽視を、そのまま継承し、さらに増幅させる路線を取りました。
これによって創価学会は、元々間違いを多く含んでいた団体でありましたが、完全な大謗法団体となり、ついに平成三年十一月、日蓮正宗から破門されるに至ったのです――。
なお、戸田会長については、いろいろな誤りや行き過ぎがあったとはいえ、本心では命がけで日蓮正宗の仏法を護らんとした、氏の信心を想うと、真実の歴史の公表には心苦しいものがありましたが、将来に向けての教誡のため(再び日蓮正宗内に、濁流の源を発生させたりしないため)、やむなきことと決断した次第であります。
(つづく)
投稿者 myokanko : 17:29 | トラックバック
E 第三章 創価学会の隠された真実師
異流義めざした牧ロ氏――獄死は「誹謗の罪」
さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在しています。それは、逮捕後の牧口氏に対する、特高警察の尋問調書です。その中で牧口氏は、
「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌(はま)った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」
として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのです。
この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠(いきょ)するところは、日蓮正宗に相違なきや?」との質問をしています。これに対し牧口氏は、
「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」
などと答え、重ねて、
「学会は飽迄(あくまで)も、日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に、特異性があるのであります」
と強調しているのです。
なんたることでしょうか。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、個々の学会員は正宗寺院で御授戒を受けていても、学会そのものは一個の独自な在家宗教団体である、と意義付けていたのであります。
これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたことは間違いありません。
また、これを見るならば、今日の池田創価学会が長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の在家教団(池田教)を指向してきた原体質は、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽(ほうが)していた、と言わざるをえないのであります。
結局、投獄された牧口氏は、一年有半を経た昭和十九年十一月十八日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じました。そして、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長は翌年七月、釈放されましたが、創価教育学会は半ば壊滅(かいめつ)同然の状態となっていました。
こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わったのです。
が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流義思想の実態や、日淳上人に対する吊るし上げと背反、偏(かたよ)った布教の在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難、などと呼ぶことは、とうていできません。
『佐渡御書』には、
「善戒を笑へば国土の民となり王難に値(あ)ふ。是(これ)は常の因果の定まれる法なり。
日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山(かざん)に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下(くだ)して嘲弄(ちょうろう)せし故に、此の八種の大難に値へるなり」
(御書五八二頁)
と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗(ひぼう)した罪、と明かされていますが、獄中にあっての戸田理事長は、この御金言の厳しさを我が身に引き当てて感じたのでしょう、
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」(前出「獄中書簡」)
と述べて僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧口氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧(あいまい)に、
「牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう」(『創価学会の歴史と確信』)
と述べています。
仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然(りつぜん)とさせられるではありませんか。
また、これら獄中書簡等を見るかぎり、戸田理事長は、師たる牧口氏の謗法に気付いていたものと思われます。
現に、出獄の二日後(二十年七月五日)、戸田理事長は
「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫(わ)び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任(まか)せいたしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)
と、お誓いしたとのことです。
さらに戸田理事長は、学会再建に着手するにあたり、まず牧口氏の根本的誤りを払拭(ふっしょく)する(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷つけることなく、むしろ顕彰しながら行なう)ことから始めました。その事実は、かつて池田大作が、迂闊(うかつ)にも『人間革命」第一巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかです。
「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味(しゅうみ)を帯びてくる。
さらに、大善生活の実践のために大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。
――ここに摧尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射して来るようだ。
戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。……しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」
遠回しな表現ですが、要するに、牧口氏は自説の「価値論」を第一とし、「価値論」を実践証明するための手段として、日蓮正宗の大御本尊を利用する格好となっており、これが摧尊入卑(尊極な教えを摧〈くだ〉いて、低下な教えの中に取り入れ、卑〈いや〉しい教えを尊〈とうと〉く見せかける謗法行為)に当たっていた、というのであります。
日蓮正宗への信心を持っていた戸田二代会長
かくして戸田会長は、牧口氏の「摧尊入卑」という根本的な謗法を学会の中から取り除きました。
そして、壊滅状態であった学会を、勤行・教学・登山・折伏・御供養等の徹底指導によって再建、わずか十年のうちに七十五万世帯を突破せしめたのです。
その戸田会長の根底には、少なくとも先代・牧口氏とは異なり、日蓮正宗の仏法を絶対とする信心があったものと思われます。
それは、以下のような戸田会長の指導を見れば、明らかであるといえましょう。
「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、非常に光栄とするものであります」(昭和三十年十二月十三日、関西本部入仏落慶式)
「学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。
むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳を損なう者は当然そうなる。
どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである」(『信者の大精神に立て』昭和三十一年一月二十九日)
「ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましを願い、畑毛の猊下のお出ましを願って、われらとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間に、本当に功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。
それでは、わたくしが導師となります。(題目三唱)」(昭和二十九年五月三日、創価学会第十回総会)
「日本中にいる一般の坊主は、全然不用なものである。(中略)二十の扉の語を借りれば、『動物』という題で、陰の声が『寺に住む動物の親分』ということになる。すなわち高級乞食である。
かかる何十万の動物の中で、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人のなかでも立派な僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。
かかる、立派な教団でも、身近に住む信者はありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを唯一の願いであるとしている猫坊主が多い≠ニ攻撃して、功績の方を見ない。(中略)かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖入御出世の御本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである。
わずか百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の『出世の御本懐』たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護したてまつって、七百年間、チリもつけずに、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。(中略)もったいないではないか。神々(こうごう)しいではないか。ありがたいではないか。……かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿たる功績こそ、たたえねばならぬことである。この上に、大聖人の御教義は、深淵(しんえん)にして、厳博(げんぱく)であって、愚侶(ぐりょ)の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか」(「僧侶の大功績』昭和二十六年六月十日)
「(戸田会長は)決然と立って、『御供養することは、信徒の務めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、はじめからそんなことを言っておるのは信徒の努めを怠(おこた)っておるものである。信徒は供養することによって利益があるのである。御利益は供養することにある。もし、そのお金を不正に使ったならば、それは使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。信徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また大聖人の仰せではないか』と叫んだのである」(昭和四十年七月十一日『大日蓮』二三四号)
以上のように、戸田会長は、その心底においては日蓮正宗を信じ、赤誠の御奉公を貫こうとしていたものと思われます。
しかし、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」
(御書九八六頁)
との御金言のごとく、この戸田会長の志を蝕む魔の用(はたら)きが忍び寄っていました。それは、親以上に敬慕した牧口常三郎氏を獄死させてしまった、との無念の想いと、講義中にまでウィスキーを呷(あお)り続けるほどの、並外れた飲酒の弊害(へいがい)であった、といえましょう。
大酒の弊害か!?正見・正念を見失う
ちなみに、戸田会長の飲酒がどの程度であったか、NHKの元ディレクター吉田直哉氏は、取材した時の様子を次のように記しています(※場面は、戸田会長が法華経講義に臨〈のぞ〉む定刻の直前です)。
「想像もしなかったことばかりが起きた。
『グイッとあけな、グイッと』
『……いえ、これから撮影……。仕事中ですから』
『なにィ?それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ』
黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にするのも勇気が要(い)った。尋常ならぬウィスキーなのだ。
こんな荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコップのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しビールを垂(た)らして割って、机の上に溢(あふ)れさせるのだ。その濡(ぬ)れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押してよこして、飲め! とこんどは大声の命令である(中略)
ひとくち飲んで不覚にもむせると、
『グイッとあけな』
と眼がすわっている。ビールをあおりながらウィスキーをストレートでのむのを、アメリカではボイラーメーカーと呼ぶ、というのはのちに得た知識だが、ビールとウィスキーの量がこの場合逆転しているのだ。いかに教祖でどんな酒豪でも、酔わないわけがない。(中略)
そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ち上がった。ネクタイは右の方にはね上がり、ズボンは下がってシャツの裾(すそ)が半分以上出て、みるからに酔漢(すいかん)の姿である。」
これでは、仏道を正しく修していくための正見・正念が持(たも)てるはずがありません。
仏経典には、飲酒による弊害が種々説かれていますが、その中に
「瞋相(しんそう)を現ず(他に対して、むやみに怒りを顕〈あら〉わにする)」
「闘訟(とうじょう)を増す(他に対して、諍〈いさか〉い、喧嘩〈けんか〉を吹っ掛けることが増える)」
「智慧減少す(物事の理非曲直〈りひきょくちょく〉を分別する智慧が損〈そこ〉ねられてしまう)」
等とあります。
まさに戸田会長は、尋常ならざる大酒を浴びるように飲む中で、智慧減少≠オ、「牧口会長が獄死したのは、弱腰だった日蓮正宗宗門のせいだ」「学会がこれだけ頑張っても、非協力的な僧侶が多くてけしからん」等といった瞋相≠現じ、また、その闘訟≠フ思いをどんどん暴走させてしまいました。
その結果、戸田会長率(ひき)いる創価学会は、「狸祭り事件」と呼ばれる騒乱事件(これは、立宗七百年祭の大法会の最中、総本山境内で多数の学会青年部が、一人の老僧に集団で暴行を加えた事件で、警察も出動する騒ぎとなった)を引き起こしたのをはじめ、機関紙上で宗門に対する揶揄(やゆ)・中傷を繰り返すに至ったのです。
以下に、当時、戸田会長が自ら論述したものの一部を、紹介しておきます。
「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信にたたれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が、国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌(りゅうしょう)のためには国家諫暁(かんぎょう)よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされた(略)
折伏もせず、正法の流布に身命を捨てえない坊主は、じつに困ったものである。この考えにまかせて、学会人は身命をささげての折伏行をなしていることは、申すまでもないことである」(昭和二十六年八月十日『創価学会の歴史と確信』)
「軍部に脅(おど)されて梵鐘(ぼんしょう)を取り上げられ、軍部が消えたら又作り出す。奥さんの前でヘイヘイして、居なくなればつまみ食いする女中のような坊主だ」(昭和二十六年七月一日『寸鉄』)
「御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね」(同年七月十日『寸鉄』)
「折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばることばかりを知っとる坊主」(同年十二月十日『寸鉄』)
「正宗信者に信心が足りない、旧信者は特に足りない、僧侶の中に特別に足りぬ者がいる様に見える、国家の救済をどうする気だ」(昭和二十七年七月十日『寸鉄』)
「平左衛門の後身、宗会議員と現る。仏恩広大にして、逆縁の輩(やから)、今大聖人の仏法の中に生まれて、唯一人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし」(同年七月二十日『寸鉄』)
「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」「乞食坊主」「化物坊主」(同)
「仏様でもないくせに仏様のような顔をして威張る坊主が気に入らない」(同年十二月一日『寸鉄』)
「坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか」(同年十二月十日『寸鉄』)
等々――。
これらの戸田会長の論調は、日蓮大聖人が『四恩抄』に
「譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり」 (御書二六八頁)
と戒められているように、正法受持の御僧侶を「失あり」と言って責め立て悩ませる、まさに、仏法の大灯明を滅せんとする重罪である、といえましょう。
ただし、戸田会長は、大御本尊と血脈に対する根本の信≠ニいう一点で、何とか日蓮正宗に繋(つな)がり止まっていました(それ故、前述「狸祭り事件」においても、時の御法主・第六十四世日昇上人から誡告を受けて謝罪文を提出し、随順を誓っています)。
そして生涯をかけて、七十五万世帯の大折伏と、日蓮正宗に対する外護を成したのです。
以上に見てきたように、創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったとはいえ、牧口時代には、異流義の在家教団という路線を指向し、戸田時代には、大功績を上げる一方、宗門軽視・僧侶誹謗という誤った体質を孕(はら)んでいました。
日蓮大聖人は、
「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七頁)
との道理を御示しですが、牧口・戸田の後を継いだ第三代会長・池田大作は、牧口時代の在家教団路線や戸田時代の宗門軽視を、そのまま継承し、さらに増幅させる路線を取りました。
これによって創価学会は、元々間違いを多く含んでいた団体でありましたが、完全な大謗法団体となり、ついに平成三年十一月、日蓮正宗から破門されるに至ったのです――。
なお、戸田会長については、いろいろな誤りや行き過ぎがあったとはいえ、本心では命がけで日蓮正宗の仏法を護らんとした、氏の信心を想うと、真実の歴史の公表には心苦しいものがありましたが、将来に向けての教誡のため(再び日蓮正宗内に、濁流の源を発生させたりしないため)、やむなきことと決断した次第であります。
(つづく)
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2006年02月02日
第二章 魔仏・池田大作の実像
謀略教団と化した池田創価学会
日蓮大聖人は、
「仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影なゝめなり」
(御書一四六九頁)
と仰せですが、体であるべき信心が根本から狂ってしまっていたために、池田創価学会は、一般常識では考えられぬような、幾多(いくた)の反社会的事件や組織ぐるみの犯罪を引き起こしてきました。
よく学会内では、悪い事をしたのは不心得な中間幹部であって、池田先生には責任はない(無謬〈むびゅう〉である)≠ニいわれますが、とんでもない話で、一切の元凶がセンセーにあることは、次の例を見ても明白です。
「ある日、堺の選挙事務所が、酔っぱらいに荒された。報告を受けられた先生は『すぐ一一〇番に電話して警察に来てもらいなさい』と指示され、(中略)『いま、対立候補が、こちらの選挙事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへん、ご迷惑をおかけしました≠ニいって御近所を全部回りなさい』と指導された。(中略)そして先生は『対立候補は悪らつな妨害をやる。選挙事務所になぐりこみをかけてきた≠ニいう印象を与えればよいのだ。特定の候補の名を出さず、一軒一軒手を打て』といわれた」(『前進』昭和四十一年十二月号所載将軍学を学ぶ=j
たかが酔っぱらいのイタズラを、対立候補の殴(なぐ)り込みにデッチ上げ、巧妙に選挙妨害を図(はか)るとは、なんとも恐ろしい将軍学≠ェあったものですが、池田は、こうした目的のためなら手段を選ばぬ*d略(ぼうりゃく)思想を幹部達にも叩き込みました。
「口八丁手八丁でよ、なんでもうまくやるんだ。社会(党)だって方便を使っている。共産(党)だって目的のためならみんな謀略じゃないか。一般社会だって利益のためならあらゆる手段をつかう。うちは信心のため、信心を守るため、学会を守るためだ」(於扶桑研修所での指導・昭和五十一年六月一日)
むろん、ここで池田が「信心を守るため、学会を守るため」などと言っているのは、本音に訳せば「学会の勢力を伸ばし、自分の野望を達成するため」ということに他なりませんが、池田に盲従(もうじゅう)する狂信的幹部達は、この池田流将軍学≠忠実に実行に移していきました。
その結果、学会は、今日の民主社会で類例を見ない奇怪な謀略教団と化し(しかも、一般会員は、情報操作により、そうした学会の実態に気付けないでいる)、以下のごとき事件を次々と引き起こしたのです。
○替え玉投票事件
昭和四十三年の参議院選挙の際、組織ぐるみで他人の投票入場券を盗み集め、本人になりすまして公明党に投票した事件で、なんと新宿区を中心に十万通もの投票入場券が消えていたことで大騒ぎになりました。
この事件では、学会学生部の北林芳典、宮本孝、砂川昭夫ら八人が有罪判決を受けています。
○言論出版妨害事件
昭和四十四年の暮れに表面化した事件で、創価学会・公明党の実態に疑問を投げかけた多くの出版物を闇(やみ)に葬(ほうむ)ろうとして、金や、政治家、右翼関係者まで使って、出版社に圧力をかけたり、組織力を動員して脅迫まがいの電話をかけたりしたもの。
この妨害を受けた書籍の主なものを挙(あ)げてみますと、『創価学会を斬(き)る』『公明党の素顔』『これが創価学会だ』『創価学会・公明党の破滅』『創価学会・公明党の解明』『創価学会』等々。
およそ、宗教者たる者、加えられた批判に対しては、堂々と言論をもって答えるべきが当然ですが、権力・財力・暴力にモノを言わせて弾圧する手口は、日蓮大聖人の教えと大きくかけ離れています。
この事件は、国会でも大きく取り上げられ、一時は池田大作の国会喚問まで噂(うわさ)される事態となり、やむなく池田大作は世間に向けて陳謝(ちんしゃ)しました。
○電話盗聴事件
昭和四十五年、共産党の宮本委員長宅の電話を盗聴した事件で、後の裁判では、故・北條浩氏(四代会長)の資金提供のもと、学会の組織ぐるみで行なわれた犯罪であることが確定しました。
なお、学会の盗聴は、その後、日蓮正宗寺院(保田妙本寺・妙縁寺・常泉寺等)に対しても行なわれていたことが判明しています。
○『月刊ペン』事件
昭和五十一年、『月刊ペン』誌が、池田の女性関係――記事中では「お手付き情婦T子(故・多田時子総合婦人部長)」をはじめ六件の関係が挙がりました――を大々的に報じ、池田らは月刊ペン社を名誉毀損(きそん)で告訴。裁判では、報道内容の真実性の立証が不十分であるとしてペン社が有罪となりましたが、しかし判決は、池田らの行動もそうとうに関係を疑わしむるものであり、かつ、学会側がこの裁判の最中、奇怪にも、名誉を毀損した側であるはずのペン社に二千万円もの裏工作金を渡していること等から、求刑を大幅に下回る微罪となりました。
なお、裁判の続いていた同年十一月十六日、池田は、関西文化会館において、公明党議員らに池田出廷回避の工作を命じ、
「もしものことがあれば?(公明党のこと)を血まつりにする。……渡部(一郎議員)はフザケ半分ではいけない。たたき出すぞ!渡部、矢野(絢也元委員長)はふざけ半分では許さない」
などと獅子吼(ししく)しており、この一連の経過は、会員の浄財の使い途(みち)と公明党の存在目的について、大いに考えさせられるものとなりました。
○公明党議員汚職収賄事件
昭和六十三年のリクルート事件で、池田克也衆院議員が五千株の譲渡を受けていたことから、議員辞職、起訴され、同年の砂利船舶汚職事件では、田代富士男参院議員が受託収賄(じゅたくしゅうわい)罪となって、離党、議員辞職となった他、翌・平成元年には矢野絢也委員長までもが、明電工事件に関与していたことが発覚して辞任しています。
○暴行・吊るし上げ事件
池田創価学会の暴力性を表わす事件は数多くあります。
昭和四十四年七月、東京・練馬区の選挙投票所(第四投票所=豊玉第二小)において、投票終了時間後に訪れた学会員二人が投票できなかったことを理由に、百数十人の学会員が投票所を取り囲んで襲撃、女性・高齢者を含む投票立会人四人に集団暴行を加えて流血させた事件。
昭和五十二年、学会の誤りに批判的だった宗門僧侶を次々と学会本部に呼びつけ、野崎勲副会長らが大勢で軟禁、恫喝(どうかつ)した上、土下座させたり詫(わ)び状を書かせた事件。
昭和六十三年七月、創価学園正門前で、池田を取材しようとした『フライデー』誌はじめマスコミの記者・カメラマンに対し、警備の学会員五、六十人が、いきなり、殴る、蹴(け)る、壊すの集団暴行を加えた事件。
平成三年、各地の日蓮正宗寺院や脱会者に対して引き起こした、脅迫・暴行事件等々……。
○巨額の脱税疑惑
平成三年三月に発覚した、ルノワール絵画をめぐる三菱商事の架空取引事件で、八尋副会長および学会の富士美術館が深く関与していることが判明、使途不明の十五億円が学会の裏金になったのではないか、との疑惑がもたれました。
また、同年五月には、学会の墓苑事業に巨額の申告漏(も)れのあることが国税局より指摘され、約二十四億円にものぼる修正申告をし、法人税約六億四千万を追徴(ついちょう)金として納付することとなりました。
さらには同年七月、証券会社が公表した損失補填(ほてん)リストにより、学会が四億五千万円もの補填を受けていたことが判明。補填があるかないかはともかく、これにより、学会が会員から集めた浄財を、七十億円も株取引に運用していたことが明るみに出ました。
このようにして得た灰色の利益がまた、学会の謀略・反社会活動の資金として使われるのです。
○会員・議員による幾多の凶悪事件
この他、創価学会員や公明党議員が起こした重大犯罪は、枚挙に暇(いとま)ないほどあります。
長野母子バラバラ殺人事件(平成元年)、原野商法詐欺(さぎ)事件(平成元年)、正宗僧侶誘拐事件(平成元年)、現職市議による覚醒(かくせい)剤取締法違反(平成五年)、学会員検事による暴行事件(平成五年)、参議院議員による秘書セクハラ事件(平成七年)、ホームレス殺害事件(平成七年)、学会員プロデューサーの麻薬取締法違反(平成十年)、トリカブト保険金殺人事件(平成十二年)、区議の少女買春事件(平成十二年)、児童八人刺殺事件(平成十三年)、NTTドコモ通話記録盗み出し事件(平成十四年)等々。この他にも、数えきれない程の事件が学会員によって起こされているのです。
会員と宗門からダブル搾取
さて、ここで金銭に関する疑惑が出たところで、池田創価学会の金権体質について触れておきましょう。
かつて、池田は
「いままでの宗教は、ぜんぶ企業であります。法盗人、法を盗んで、そして信者を、どれいのごとく扱い、金もうけ専門であります。だから邪教というのです」(『聖教』昭和三十八年八月十七日)
と述べ、他教団の金権体質を突いて攻撃することを、布教の最大手段としてきました(日蓮大聖人の折伏の本義とはずいぶん違いますが)。そして、
「日蓮正宗を守っていくことは私どもの役目です。(中略)創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うような事はありません」(『聖教』昭和三十七年六月九日)
と言って、学会がお金を集めるのは日蓮正宗に寺院を寄進したり御供養するためで、学会としては一銭も受けていない(ならば、あの三千名からの膨大〈ぼうだい〉な職員・職業幹部達は、カスミでも食べて生きているというのでしょうか)、と宣伝してきたのです。
しかし、これらの池田発言は、全て会員を欺(あざむ)くための嘘(うそ)でした。たとえば、
「正本堂の御供養。五年間であれだけ。十年間はあの倍。あの発表の外に百億はやった。又、かせぐよ」(第四十四回社長会・昭和四十六年一月二十六日)
等の発言からも明らかなとおり、池田は、正本堂建立御供養(学会では、三百五十五億円が集まったと発表していました)においても、公式発表した以外に百億円を稼いだばかりか、宗門を恫喝して、納めた御供養の中からも十三億七千万円を拠出(きょしゅつ)せしめています。
さらには、今や年間二千億円以上を集金する狂乱財務(昭和五十六年には百五十億円だったものが、今では十倍以上。平成二年などは三千九百億円集めたといわれます)で会員の生活を圧迫する一方、学会の系列企業に、
「本山の全T・V報告。東洋(東洋物産)でやらせようね、いいね。どれ位儲(もう)かる。一〇%かそれでは少ない、一五%位儲けなさい。かまわないよ」(第五十三回社長会・昭和四十六年十月十三日)
「本山のCATV予算はいくらだ。二億一千万か。その見積はそれとして、一千七百五十万技術料として加算しなさい」(第五十六回社長会・昭和四十六年十二月三十一日)
と命じ、あらゆる機会を通じて日蓮正宗からも不当な搾取(さくしゅ)を続けてきました。
また、会員から巨額の金銭を拠出させる大義名分となっていた「日蓮正宗を守っていく役目」すなわち寺院の建立寄進≠ニいう点についても、当時の学会が日本最大の宗教法人であるにも拘(かか)わらず、日蓮正宗の寺院数は日蓮宗のそれに比して僅(わず)か一割程度、それも近年寄進の寺院は小さくて安普請(やすぶしん)、一方、学会の会館は規模建築費ともに「超」がつくほど――という実態を冷静に考えてみれば、虚偽(きょぎ)は明白です。
要するに池田は、「日蓮正宗のため」と称して会員から徹底的に搾取し尽くし、それで本当に日蓮正宗を守るわけでもなく、かえって日蓮正宗をも搾取する対象としていたのです。
かくして集金された金銭は、いったい、どこへ消えて行ったのでしょうか。いみじくも、池田は次のように言いました。
「皆んなは公私混同、公私混同と云うが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ」(第二十回社長会・昭和四十四年一月二十二日)
全国の学会施設のうち約百か所に池田専用施設が設けられ、国家元首も及ばぬような、贅(ぜい)を尽くした風呂、トイレ、ぶ厚いジュータン、壮大なシャンデリア等々が用意されたことは、すでに多くの証言、証拠写真によって明らかといえましょう。それぞれの専用施設が、数億から数十億かけて作られ(しかも、土地代を除いて、です)、調査を受けそうになれば一夜にして取り壊し、また作る――まさに池田発言のごとく、池田は「公私混同で全部公だ」との信念(?)のもと、学会に集まる巨額の金を好き放題に使ってきたのであります。
かの一億七千万円入り金庫が捨てられていた事件(平成元年七月)にしてもしかり。中西治雄総務(当時)が犠牲となり、全てをかぶって記者会見しましたが、中西氏個人の商売で得た金が、金庫に入って聖教新聞社の地下にあり、それも昭和四十六年当時で現在の六億円にもあたる大金を、二十年近く忘れていた≠ネどという釈明を、いったい、誰が信じるというのでしょうか。
この事件発覚の際、『聖教新聞』は、「今度は廃品金庫から一億七千万円。ゴミの中から。欲ボケ社会の戯画(ぎが)・縮図か」(「寸鉄」欄)などと酷評(こくひょう)していましたが、捕えてみれば我が子なり≠ナ、まさに「欲ボケ」池田学会の「縮図」ともいうべき事件でありました。
人々の「福運」奪う暗黒の魔王
さて、池田大作の野望と正体について言及してきましたが、この現代の天魔は、自ら次のごとく豪語しました。
「なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく」(第四十回社長会・昭和四十五年十一月十九日)
「タクシーに先生(池田のこと)が乗って降りると、良い客がつく。私が乗ると、今日はもう心配ない」(第五十五回社長会・昭和四十六年十二月十五日)
「私の頭の中にある事は全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ」(第十五回社長会・昭和四十三年八月三日)
「太陽にあわなければしおれるよ。社長会に入っていのちびろいしたな」(第五十九回社長会・昭和四十七年三月三十一日)
この言葉のとおりなら、池田の弟子となって一生懸命に活動している学会員は皆、福運に満ちて、商売繁盛、事件を免(まぬが)れ、命を長らえているはずです。
が、しかし、事実は全く正反対といわざるをえません。
会員に財務を競い合わせて、やれ「自分は百万円出した」「いや、自分は一千万」などと発表させ、生活保護家庭にまで財務を強行推進した結果、学会員において、金策に行き詰まっての犯罪、サラ金苦による自殺、心中、夜逃げ――が多発し、随所で家庭崩壊の悲劇が起こりました。
現に、『週刊朝日』(昭和五十八年四月二十二日号)のグラビアには、東京都住宅局が管理する、夜逃げした人々の残していった仏壇が報じられていましたが、その大半が、鶴丸のついた学会員の仏壇でした。
また、『アサヒグラフ』(同年九月二日号)の特集「サラ金地獄蒸発≠フ現場」でも、写真の大半に鶴丸のついた仏具や経本が写っています。
こうした悲劇は、非活動会員の身の上に起こったことではなく、歴とした第一線の幹部や市議・県議といった人々をも巻き込んで、広く発生してきたのであります。
さらには、学会員として活動する中で、人格が破綻(はたん)したり、ノイローゼとなって、凶悪犯罪に走ったケースもじつに数多く見られます。学会幹部による詐欺・窃盗・放火・殺人・麻薬・密輸・連続婦女暴行等々、なんと重大犯の三割近くが学会員といわれているほどです。
なおまた、幸せを願い、真面目に生活していながら、謗法の果報として悲惨な末路となった気の毒な学会員のケースも、数えきれないほどあります(これについては、あらためて紹介することにしましょう)。
しかして、不可思議なことに、池田が会談し絶讃した各国の指導者達――ルーマニアのチャウシェスク大統領、パナマのノリエガ将軍、ソ連のゴルバチョフ大統領等々までもが、「福運がつく」どころか、相次ぎ崩れ落ちていってしまいました。
ちなみに、仏法でいう「魔」、とは「奪命者」「奪功徳者」の意であり、第六天魔王(天魔)とは、その一切の魔を司(つかさど)る者です。その意味からすれば、まさに池田大作こそ天魔、「太陽」どころか、関わる者すべてを滅ぼし尽くしていく暗黒の魔王という他はありません。 (つづく)
投稿者 myokanko : 12:52
2006年01月25日
第二章 魔仏・池田大作の実像(1)
自作自演だった現代仏陀論
創価学会問題の根底に創価王国構想≠ニいう天下取りの野望があることは、すでに述べたとおりですが、ここで、その野望の主・池田大作の実像について触れておきましょう。なぜなら、今日における創価学会問題の一切の元凶は、池田大作に帰着するからです。
まず、学会内における池田崇拝(すうはい)ですが、これは、全(すべ)て池田自身が仕組み、自作自演して築いてきたものです。
池田は、学会員が仏を崇拝する(日蓮正宗の教えでは、末法の仏は日蓮大聖人ただ御一人)、その信仰心を巧みに利用して、
「御本尊様は口をきいてくださらない、また御書もありますけれども口をきいてくださらない。(中略)全部、牧口先生、戸田先生のお力であります。両先生とも偉大な仏様でございます」(奈良十周年記念勤行会・昭和五十一年二月十五日)
「戸田先生は仏さまであられます」(昭和三十六年発行『会長講演集』第四巻)
「仏さまはウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです」(同年発行『会長講演集』第三巻)
「妙法への帰命(きみょう=帰命とは、仏法僧の三宝に対してのみ用いる語)という理念は、具体的な実践でいうならば、希有(けう)の師への帰命、すなわち戸田城聖への帰命でなければならない」(『人間革命』第三巻)
「私から幹部の任命を受けることは、記別(きべつ)を受けること(記別とは、仏が弟子の未来の成仏を証明すること)です。これなくしては法華経を持つといえども無益である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ『霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色となる』との御金言のごとく、幸福境涯になれるのです」(『前進』昭和四十二年二月号)
「私の構想は、大聖人の仰せと寸分狂っていない」(『前進』昭和四十一年八月号)
「私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう=境智冥合とは、信仰者が仏と一体になる意)していなければ…」(『前進』昭和四十年六月号)
等と、自らを生き仏≠ノスリ替える指導を繰り返しました。
そして、古今の多くの独裁者がそうであったように、池田も、実際の歴史を塗り変え、自身の数多くの神話作りに励んだのです。中でも、学会員なら誰でも知っており、かつまた、活字となって証拠が残っているものとして、かの有名な入信神話があります。
あの入信神話もデッチ上げ!?
すなわち、池田は、
「昭和二十二年の八月十四日に戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら…』と信仰の道を歩む決意をしたのである。さらに、話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦時中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず、毅然(きぜん)として節を曲げずに、昭和十八年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも、己れの信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった」 (『私の履歴書』)
と言います。そして、さらに池田が戸田会長の話を聞いているうちに、奇跡としかいいようのない神秘的な現象が、突然、二人の間に起こった、として、
「それは、私がいつかこの人の後を継ぐだろう、継がなければいけない。私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感でした。それまで、そういう運命的な直感などむしろ軽蔑(けいべつ)していた私が、どうして、ああいう気持ちに襲われたのか、いまもって不思議ですね。
しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかったんですが、私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いま、オレはついに後継者とめぐりあった――と、ひと目で直感されたというんですよ。
はじめて会って三十分もたたないうちですが、戸田先生と目が合ったとき、私はそのこと――先生がなにを感じられたか――をハッキリ知りました。先生のほうも私の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださったわけです」(五島勉『現代の英雄』で取材に答えて)
と言うのです。さらには、
「その時(牧口、戸田の出会いの時)、戸田城聖が十九歳で、牧口常三郎は四十八歳であった。いま、戸田は、四十八歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田のこと)は、十九歳だといった。(中略)いま牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、四十八歳の彼の前に、出現したのである」(『人間革命』第三巻)
と言い、側近幹部まで使って、
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに、仏法の不思議!」(『聖教』昭和三十五年五月十三日)
などと言わしめています。
この、池田の入信にまつわる話は、多くの学会員の間で、「すごいわねェ」「やっぱり池田先生は、会長になるべくして生まれてきた御方なのよ」等々と、ありがたい神話として信じられてきました。
しかし、呆(あき)れたことに、これらは全て池田がデッチ上げた嘘(うそ)だったのです。以下は、会長就任(昭和三十五年)以前の池田の発言です。
「私が信仰したのは丁度今から十年前の八月二十四日です。(中略)折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。(中略)私はそこで教学部長(小平芳平=当時)から折伏されたんですよ」(『聖教』昭和三十二年十月十八日)
「南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて、信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。(中略)それでお題目をとなえろということでしたが、恥ずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分間ほど、いりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり押しつけました。家に帰っても三日間おがまずに放っておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。(中略)それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へ行ったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
これらの発言に加えて、もう一つ、「まことに仏法の不思議!」とかいう会長間の年齢の一致ですが、これまた無慙(むざん)な嘘で、牧口・戸田の出会いは四十九歳と二十歳、戸田・池田の出会いは四十七歳と十九歳が実際である(いずれも満年齢)、ということも付け加えておきましょう。
このように池田は、自らを学会内で絶対化(本仏化)するために、史実を塗り変え、恥知らずな嘘を重ねて、虚飾に満ちた入信神話を捏造(ねつぞう)したのであります。その、あまりの厚顔さは、ジャーナリストをして、こう言わしめました。「池田の入信神話は、デマの発生と肥大に関する調査・研究に、貴重なデータを提供できるほどのものであろう」と。
絶対服従の上で傍若無人に
かくて、学会内における池田の絶対化・本仏化は、ほぼ全末端にまで浸透し、
「国会前で、会長が死ね≠ニいえば死にましょう。生きろ≠ニいえば生きましょう」(『会長講演集』十二巻)
という姿勢こそが模範的学会員とされ、学会員は、池田の声を聞いただけで、老若男女の別なく感極まって泣き出すほどの有り様となりました。
現に、平成三年十月六日に放映されたTBS「報道特集」で、学会の文化祭の模様が映し出されましたが、両手を上げてパフォーマンスする池田に、おびただしい数の若い男女が、顔をグシャグシャにして「センセーッ」「センセーッ」と、思いっきり泣き喚(わめ)きながら手を振る異様なシーンがあったのを、記憶している人も多いでしょう。
かつて、こうした光景を目のあたりにした外国人識者などは、「こうした大衆のエネルギーと盲目的従順の表明に慄然(りつぜん)とした。第二次世界大戦当時を憶(おぼ)えている者にとっては、こうした光景はけっして忘れられるものではない。私の心に、ナチスの青年大会のニュース映画の一コマや、文明を絶滅してしまった全体主義の光景が、ちらっと浮かんでくる」と述べていますが、まったく、その直感的危惧(きぐ)は的(まと)を射ている、というべきであります。
こうした数多くの会員の絶対的服従の上にあぐらをかいて、さらに池田は増長し、自分が口をつけて食べかけたメロンを「さあ、いただきなさい」と側近幹部達に下げ渡したり、食べ終わったウドンの残り汁に真っ赤になるまでトウガラシを振りかけ、故・北條浩氏(四代会長)に「飲みなさい」と下げ渡して、その忠誠心を試みたりといった、常軌を逸(いっ)する傍若無人(ぼうじゃくぶじん)ぶりが散見されました(元学会員の証言)。
また、歴とした会合の席上、肺病を患(わずら)っている幹部をさして、
「杉本君(杉本芳照総務=当時)はばかに痩(や)せている。生気がない。(中略)肺病を直すのは護符を頂き、夫婦生活をやめて、十一時以内に帰る。これをやれば直るよ。やりすぎだ! 諸法実相で姿を見ればわかるよ。肺病にも、先天的な体、青木さん、山川とか結婚前になるのが多い。顔の皮膚が透き通った様な感じでわかる。それ以外はやりすぎだ! なさけない顔だ」(第二十一回社長会・昭和四十四年二月十九日)
等と、下卑た言葉を連発し、平気で幹部の面目を潰したりもしました。
一般社会にあってはとうてい考えられないことですが、学会の中では自分が絶対的支配者である≠ニの驕(おご)りが、池田にこうした言動をとらせたのでしょう。
池田の傍若無人な言動は、他にも数多くありますが、そのうちの代表的なものを次に挙(あ)げておきましょう。
「全員が『勝つ』と強く決めていけ! 勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ! 私は恐れなど微塵(みじん)もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ! 強気で勝つんだ! 強気、強気、強気…でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴(どな)っていけばいいんだ!(中略)反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ!」(平成元年三月十二日・埼玉指導での池田大作発言)
「威張りくさりやがってねェ、ほんとにブン殴(なぐ)って(笑い)、あのー、まぁ日顕(上人)なんか、その(イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金(はりがね)でゆわえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね。暴、暴走族じゃないけどさァ。」(青年部幹部会での池田大作発言・平成四年十二月十三日)
「糸満平和会館て、これ名前変えた方がいいんじゃないかな。……ウーマンっぽい、ウーマンっぽい、糸満なんてウーマンっぽい。(※会場はあまりウケない)……駄目(だめ)か、もっといい、ね、いいのは、キンマン、いや、イトマン、キン○○コだよ(会場爆笑)。」(第六十八回本部幹部会での池田大作発言・平成五年七月七日)
なんと、朝の勤行は0分〜10分!!
また、このような池田に、自ら身を低くする敬虔(けいけん)な信仰心など、あろうはずはありません。
学会が裁判の資料として提出した、池田大作の行動記録≠ノよれば、その無信心な実態が浮き彫りにされています。
たとえば、昼近くに起床して風呂に入った後、「一三時三〇分 勤行」「一三時四〇分 研修所発」
とか、あるいは、
「一一時〇〇分 勤行」
「一一時〇〇分 離れに行かれる」
とか、はたまた、
「一四時〇四分 勤行」
「一四時一〇分 終了
おそば」
等々、要するに、池田の朝の勤行というのは、ほとんど、六分、十分、あるいは〇分(!!)といった、呆れ果てた勤行(というより、怠行〈たいぎょう〉とでもいうべきか)なのです。
このような池田の有り様では、総本山の大法要の途中、すぐに足がしびれて中腰になっていたのも無理はありません。
また、池田が、大勢の会員を率(ひき)いて短い勤行をした時など、呆れたことに、池田の前にある経机の上には、常に茶托(ちゃたく)と茶碗が置かれていました。つまり池田は、茶を飲みながら勤行をしていたのです。
経机を卓袱台(ちゃぶだい)の代わりにして、茶を飲みながら勤行をする――池田の行体の弛(ゆる)みぶりには、開いた口が塞(ふさ)がりません。
かくのごとく信心なき池田ですから、平気で御本尊模刻などという大謗法を犯しますし、護符=i前掲の社長会での発言中にもあり、これは、大聖人の相伝による御秘符≠真似(まね)て、池田が勝手にでっち上げた代物。大聖人とはなんの関係もない)などという怪しげなものを造って、会員を騙(だま)したりできるのです。
以上を見ただけでも明らかな池田大作の実像――それは、恐るべき慢≠フ固まりであり、信心などカケラもない姿であるといえましょう。(つづく)
投稿者 myokanko : 12:57
第一章 日本乗っ取りを企む創価王国構想 (2)
さて、これまで、池田の抱いてきた「創価王国」構想という野望について述べてきましたが、この池田の構想は、実際のところ、今日までどのように進んできたのでしょう。
池田の第三代会長就任以来、今日に至るまで、この構想の進展には三度の大きな節があったといえます。
言論妨害事件で社会問題に
しかし「十年後には、ざまあ見ろ」と
その第一の節は、昭和四十五年に起きた言論出版弾圧問題でした。
これは、学会に対する批判的文献が出版されることに対して、学会組織を挙(あ)げて、著者および出版社に圧力を加え、言論出版の自由を妨害した事件で、当時のマスコミ・世論は、この著(いちじる)しく一般良識を欠いた反社会団体を大々的に非難しました。
これにより、世論の集中砲火を浴びる格好となった池田は、同年五月三日、第三十三回本部総会において、
「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫(わ)び申し上げる」
「今後は、二度と、同じ轍(てつ)を踏んではならぬ、と猛省したい」
等と陳謝(ちんしゃ)し、併(あわ)せて、生涯にわたる池田の政界不出馬、学会・公明党の政教分離、折伏活動の緩和等を誓約せざるをえなくなったのです。
この池田の陳謝と誓約は(たとえ対外的なゴマカシであったにせよ)、これまで馬車馬のように目的に向かって突っ走っていた学会組織を、否応なく根底から揺るがしました。
そして、「折伏」は「仏法対話」「友好活動」に、「邪宗」は「他宗」にと言い換えられ、かつての急激な教線拡大は絶えて見られなくなりました。また、公明党の伸びも予想外に遅くなって、政権獲得のスケジュールから遠くかけ離れてしまいました。
この時、池田の抱いてきた天下取り″\想が完全な形で実現する可能性は、ほぼついえた、と言えましょう。皮肉なことに、池田が好んで言う「民主主義の力」「民衆の力」が、似非(えせ)民主主義者である池田の野望を破砕してしまったのです。
だが、池田の胸の中にある野望の炎は、消えていませんでした。否、むしろ、言論妨害事件における神妙な陳謝・誓約は、当面の危機を回避して、捲土重来(けんどちょうらい)を期する、池田一流の処世術でした。
池田は、心を許せる首脳陣に対しては、
「(言論妨害といっても)たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ」(第三十二回社長会・昭和四十五年二月二十七日)
「竹入に今まで以上に王仏冥合、政教一致でゆけ、と云おうか。(中略)ざまあ見ろと云うには十年かかるな、でもやろうよ」(第三十四回社長会・昭和四十五年五月五日)
等々、社会に向けての公式発表とは裏腹の、呆(あき)れ果(は)てた本音と復讐宣言をぶちあげていたのです。
しかし、いったん低迷し始めた学会の教線の伸びは、もはや元の状態には戻りませんでした。
支配か独立か、対日蓮正宗戦略
日達上人の破折で計画挫折!
次に訪れた第二の節は、いわゆる第七の鐘≠ェ完成するといわれた、昭和四十八年から五十四年にかけての七年間でした。
この頃、学会の布教は前述のように失速していましたが、池田の昭和五十四年≠ノ対する思い入れは全く変わっていませんでした。
池田は、この五十四年までの七年間で、日蓮正宗富士大石寺に対する戦略≠完結させようと考えました。それは、日蓮正宗宗門を学会の傘下に収めて完全支配するか、もし支配が不可能なら、日蓮正宗と真正面から闘って手を切る(独立して一宗一派を旗揚げする)というもので、要するに、日蓮正宗の信徒にすぎなかった立場を超えて、自ら最高の宗教的権威の座に着こうと考えたのです。
創価王国樹立の暁(あかつき)には、精神面・経済面・政治面等、総てを統括・独裁しようと企てる池田にとって、この対日蓮正宗戦略は、絶対に欠かすことのできないステップでした。
当時の学会の内部文書を見ると、
「長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後をかためるという方法です。(中略)本山、正宗は、党や大学、民音以上に学会にとっては存在価値のある外郭(外郭団体のこと)と思われ、これを安定的にひきつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。(中略)そのための布石としては、
一、本山事務機構、法人事務、経理事務の実質的支配
二、財政面の支配、学会依存度を高める
三、渉外面の支配
四、信者に対する統率権の支配、宗制宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等
五、墓地、典礼の執行権の委譲
六、総代による末寺支配
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行なうことが必要」(昭和四十九年四月十二日付「池田宛て山ア・八尋文書」)
等々といった詳細な支配計画と、万一、この計画が失敗した場合の備えとして、
「本山とはいずれ関係を精算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり向こう三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも精算できるようにしておく」(同)
という、周到な独立作戦が示されています。
こうした既定の戦略に沿って、この時期、池田は日蓮正宗支配に乗り出したのです。
もはや、これは信仰≠ネどと呼べるものではありません。池田が、自身を本仏化する指導を繰り返し、信仰者の命ともいうべき御本尊を次々と模刻複製し、はたまた、第六十六世日達上人に向かって「十三億円出せ!」と怒鳴りつけたり、寺院・僧侶を軽視・否定する発言を行なったのも、この時期のことです。
こうした池田の日蓮正宗支配の野望の前に毅然(きぜん)として立ちはだかったのが、日達上人であられました。上人は、
「一昨年の秋ぐらいから去年を通じ今年の春にかけて、学会が、宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また教義的においても、我々から見て逸脱(いつだつ)していることが多々あるように思われます」(昭和四十九年七月二十七日)
「日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきではないし、大聖人がお喜びになるとは思いません」(昭和四十九年六月十八日)
「一人でもお山を守りたい。たとえ学会と手を切っても、百姓をしてもいいから、お山を守ろう、と皆にも言っているんです」(昭和四十九年七月二十七日)
と仰せられ、捨て身の覚悟で池田創価学会の誤りを糺(ただ)そうとされたのです。
これに対し、池田は、
「今まで創価学会をいじめた者を今からやる」(公明党議員との記念撮影・昭和五十一年十一月十六日)
と宣言、五十二年新春から、宗門誹謗(ひぼう)や僧侶吊るし上げ・参詣停止による激越な経済封鎖等を開始しましたが、結局、日達上人を先頭とする学会破折活動によって大量脱会者を出してしまい、池田は、五十三年には教義逸脱の訂正(その日付にちなんで「六・三〇」と呼ばれる)、お詫(わ)び登山(同じく「一一・七」と呼ばれる)、五十四年には池田自身の引責辞職(「五・三」と呼ばれる)という形で、挫折を余儀なくされてしまいました。
この、思わぬ大打撃により、池田の創価王国構想のタイム・スケジュールは、さらに遠く繰り延べとなったのです。
「平成二年・総仕上げの年」
再び日蓮正宗支配に挑んだが
しかして、次に池田が迎えた第三の節とは、かねて彼が総仕上げの年≠ニして固執してきた昭和六十五年(平成二年)でした。
この時、池田は満六十二歳。終生の野望を果たすためには、年齢的にいっても、そろそろ残り時間も長くはありません。それ故、池田は、もはや完全なる天下取り≠ェ達成できず、公明党の単独政権構想が連立政権(もしくは公明党を解散して与党内に入り込み、大派閥を形成)程度になろうと、実質、日本国内において最大の権力が集中する立場となりさえすればよい、という考えに固まっていったものと思われます。
事実、平成二年を目指す途中、公明党は、「中道主義」などといいながら、昭和五十五年には閣僚入り工作、昭和五十九年には二階堂擁立(ようりつ)劇といった動きをして、しばしば自・公連立の機を狙うようになりました。
また学会内では、平成二年に向けて再び日蓮正宗支配を目論(もくろ)む一方、もし、それが失敗した場合には、かつての二の舞いを踏むことなく、今度は徹底的に日蓮正宗を攻撃して独立ができるよう、準備を続けていました。
ちなみに、平成三年一月に流出した学会内部文書『宗門問題の本質』も、その過程で作成されていたもので、同文書には、
「学会は主・宗門は従である。学会の教義が日蓮正宗の教義と異なるのは避けられない。学会は日蓮正宗の外護(げご)をやめる。御法主は権威主義化されており、その温床は血脈相承・大御本尊・日蓮本仏という日蓮正宗の三宝の立て方にある。日寛上人の教学は御法主の地位をカリスマ化するための論理である」(趣意)
等々、日蓮正宗の信仰の主体と教義を冒涜する魔説が、堂々と謳(うた)われていました。
池田は平成二年に向けてこうした手を着々と打っていきましたが、そのような邪心には諸天善神の加護もなく、その独善的野望から生じた異常な事件が次々と明るみに出、大きな社会問題となり始めたのです。
共産党・宮本委員長宅に対する電話盗聴事件の発覚(裁判で学会・北條浩らに、損害賠償命令が下った)、池田スキャンダルを報じた『月刊ペン』事件(裁判では、真実性の立証不十分として『ペン』側の名誉毀損(きそん)が認定されたが、池田にも十分疑わしい言動があったことや、池田出廷回避工作費として三千万円もの大金が支払われていたこと等により、求刑に対して大幅減刑された)、学会施設から一億七千万円入り金庫が投棄された事件、学会員による正宗住職誘拐(ゆうかい)六億円身代金事件(犯人の学会員は、金満体質の学会から身代金が出るだろうと目論んで誘拐した、と供述)、公明党議員による数々の贈収賄(ぞうしゅうわい)事件等々……。
これらにより池田創価学会は文字どおり泥に塗れましたが、それでも、なお池田大作の「総仕上げ」への意欲は衰えることなく、日蓮正宗に対しても、その支配下に収めるべく露骨に圧迫を加え始めました。
この時、池田の野望を敢然とはねつけられたのは、第六十七世御法主日顕上人猊下でした。日顕上人猊下は、平成二年十二月、信徒としての道を逸脱した池田の「総講頭」職を資格喪失せしめ、また、平成三年十一月には学会組織を日蓮正宗から破門、さらに平成四年八月には池田を信徒除名処分に付するという、大英断を下されたのです。
こうして、池田の目指してきた「平成二年・総仕上げ」は成らず、創価学会も、それまでの宗教的基盤を失う結果となりました。
以来、池田創価学会は、日蓮正宗宗門に対する悪宣伝・誹謗中傷・訴訟乱発・会員による脅迫などの攻撃を繰り返しながら、それでも国家機構を手中に握ろうと懸命になっています。
これと連動して、公明党も、自民党に擦り寄ったり、逆に、非自民連立政権(細川内閣)に参画し、新進党を結党したりした挙げ句、平成十一年には、またも一転して自民党と連立政権を組む――という無節操ぶりを発揮、政権中枢に食い込んでしまいました。
これが、司法や行政に影響を及ぼさないはずがありません。学会絡(がら)みの裁判でも、時として、首を傾(かし)げざるをえないような不当判決が出るようになりました。
また、学会は会員から収奪した巨額の資金を使い、各新聞に大宣伝を出したり、機関紙の『聖教新聞』(これは朝日・読売に次ぐ部数で、三大紙に入っている毎日よりも、はるかに多い)を経営難の新聞社に印刷させるなどして、ほぼ日本のマスコミを籠絡(ろうらく)するのに成功、一部のメディアを除いては、学会批判はタブーとなりつつあります。
いよいよ事態は大詰めとなりました。池田大作もすでに老境に入り、残された時間も長くはありません。ここで、日蓮正宗の正法正義を守り抜き、池田の恐るべき野望を食い止めることができるか、どうか――。今が日本の将来を大きく左右する水際であることは間違いない、といえましょう。
池田大作とは何者なのか?
以上、今日に至る池田の野望の軌跡を見てきましたが、そもそも、池田大作とは、いったい、何者なのでしょうか。
仏法では、この世の中を邪な力をもって管領・支配し、大衆から生き仏のように崇(あが)められ、上下万人を意のごとく動かすことに無上の喜びを感ずる存在≠、「第六天魔王」「僭聖(せんしょう)増上慢」「他化自在天子魔」等と呼びますが、まさに池田大作の目指す「最高権力者」像こそは、ズバリそれであります。要するに、池田の内に巣食った「魔王」の生命が、池田をして、あるべき姿≠フ実現へと駆り立てているのだといえましょう。
現代の魔王・池田大作――。その野望をくい止めなくては、民主主義日本が、ファシズムに支配された創価王国となってしまいます。
これをくい止めるためには、池田の力の基盤となっている実質二百万世帯の盲目的学会員を、正法正義の折伏によって、悪夢から覚醒(かくせい)させる他はありません。
我が日蓮正宗は、たとえ弱小教団なりとも、宗祖日蓮大聖人の正統門流たる責任において、仏法のため、日本国のため、全民衆のために、この巨大団体に対して破折と善導を続けているのであります。
投稿者 myokanko : 12:39
2006年01月24日
第一章 日本乗っ取りを企む創価王国構想 連載(1)
「天下を取って最高権力者になる!」
――驚くべき池田の天下取り構想――
創価学会とは何か、いったい何をしようとしているのか――その本質を知るためには、学会が「永遠の指導者」(会則より)と仰ぐ池田大作(本名=太作。昭和二十八年に自ら改名)の目指してきた野望を知らなくてはなりません。
何も知らない人達は、「まさか」「そんな、とんでもないことを」と思うかもしれませんが、この池田大作という男、じつは日本国民が震(ふる)えあがるような、とてつもない野望を抱いてきたのです。
昭和二十七年三月十日付『聖教新聞』(以下、『聖教』と略す)は、当時、参謀であった池田の人となりを紹介して、
「同君(池田のこと)は常に言う『天下を取ろう』と」
と報じていますが、まさに、池田が若い頃から抱いてきた野望とは、日本、ひいては世界を向こうに回しての、三国志ばりの天下取り″\想でした。
それは具体的にどのようなものか、池田の発言を見てみましょう。
「広宣流布(池田のいう広宣流布とは、国民のほとんどが学会員となる状態)の時には、参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少なくとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、ひとつ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布できやしませんよ。ひとつ天下取るまで諸君は大事な体だから、うんと修行していきなさいよ」(『聖教』昭和三十二年九月六日)
「広宣流布への挑戦をしていこう。天下を取らなければ途中の苦労が何にもならない」(第四回社長会・昭和四十二年九月二十二日)
「天下をとれることが少し私には見えてきた。天下をとらない党なら、やる必要はない。私がひかえているから心配するな」(公明党議員との記念撮影・昭和五十一年十一月十六日)
「広宣流布の時には、不開門が開きます。その時は、どういう儀式になるのか。(中略)一義には(不開門を開くのは)天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。後々のために言っておかないと、狂いを生ずるから言うのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、今度は皆さん方が不幸です。学会も不幸です。本山にも不祥事をしてしまう。その意味において、きょうは、言いたくないことでありますが、将来の、将来のために、私は言っておきます」(『聖教』昭和四十年七月二十六日)
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」(『現代』昭和四十五年七月号)
「広布(広宣流布)の斗(たたか)いで、政党、学校、文化、民音等もできた。最後に残ったのは経済だ。これから、この社長会を中心に経済革命をする」(第一回社長会・昭和四十二年六月二十五日)
「(この社長会は)未来の経済革命をしてゆく会合であり、日経連など問題でない」(第十回社長会・昭和四十三年三月二十二日)
「目立たないように枝を伸ばし、産業界に網の目を張りめぐらして、最後に総合商社を作って決戦だ。(中略)中曽根康弘は心配ない、こちらの小僧だ。総理大臣になりたいと云っていたので、よしよしと云っておいた。ケネディきどりだ、坊やだ」(第六回社長会・昭和四十二年十一月二十五日)
「警察だって、動かしているのは竹入・井上だよ」(第十三回社長会・昭和四十三年七月八日)
等々。
また、こうした池田発言を受けて、池田の忠実な弟子達も、しばしば
「(広宣流布の時には)わが男子青年部の手によって内閣を結成して」(『大白蓮華』昭和三十九年二月号・秋谷栄之助発言)
「池田先生が、日本の指導者として立っていただく」(『聖教』昭和四十年七月二十六日・北條浩発言)
等の本音を述べていました。
これらをまとめてみますと、要するに、
@精神面では、日本中を学会員とせしめる
A政治面では、公明党が政権を樹立する
B経済面では、学会系企業が財界を支配する
Cその他(行政、司法、マスコミ、教育、芸能等々)の要所要所に学会員を送り込んで完全掌握(しょうあく)する
Dこれら全体を統括し、池田が日本国の最高権力者となる
といった多面的構想(これを池田は「総体革命」と呼ぶ)で、日本国を完全支配しようと画策していたのであります。
これは、単なる誇大妄想狂の絵空話ではありません。池田は、学会の急激な教線拡大を背景として、この天下取り″\想を着実に実行に移していきました。
現に、公明党は第三政党にまで議席を伸ばし、各分野に送り込まれたエリート学会員(弁護士、検事、判事、公認会計士、税理士、警察官や外交官等の国家公務員上級職等々)の数は、おそらく現在では約千名を数えるでありましょう。ただ、経済界進出の構想はそのとおりには進まず、学会系企業が一般社会へ向けてマーケットを拡げることはできませんでしたが、その替わり、財務・広布基金等の名目で、哀れな一般学会員から徹底的に搾取(さくしゅ)し尽くし、学会は膨大(ぼうだい)な資産を蓄えるに至りました。
民主主義を冒涜するこの野望
野望のキーワードは「創価王国」
池田は、この野望達成へのタイム・スケジュールを、当初、次のように考えていました。
まず、「七つの鐘」構想といって、初代・牧口会長が初めて「創価教育学会」の名称を使用した昭和五年をスタートの年として、七回目の七年、すなわち四十九年目(七×七=四十九)の昭和五十四年までに日本の広宣流布を達成する。しかして、
「そこで広宣流布の一つの目標に到達しますが、そんなに無理する必要はない。それで、その昭和五十四年から、もう十一年目までみると、その十一年目が、正応三年十月十二日いまの日蓮正宗総本山富士大石寺が創立されてから、ちょうど七百年目にあたります。(中略)それで、その年は、また不思議に、戸田会長の三十三回忌になります。師匠の追善供養を三十三回忌まですれば最高なのです。またその年は、私が会長に就任して満三十年目です。(中略)そういうようなわけで、昭和五十四年から十一年目の昭和六十五年、西暦一九九〇年、この年を目標にして、広宣流布の大総仕上げにかかりたい。こう決意している次第であります。
なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は八回になります。また、衆議院の選挙も、最低十回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時までには非常に力がつくのではないかと考えます。
また、折伏も、一千万の基盤は、……昭和五十四年にでき上がれば、六十五年までには、さらに四、五百万世帯ぐらいはいくのではないかと考えられます。
これはあくまでも話として聞いていただきたいのですが、一千五百万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の舎衛(しゃえ)の三億≠フ方程式は、事実上間違いなく、それ以上の結果になることは明らかです」(『聖教』昭和四十一年五月四日)
昭和五十四年に日本の広宣流布を達成した後、昭和六十五年(実際は改元により平成二年となった)までに総体革命の総仕上げ、すなわち天下取り″\想を完結させよう、というわけです。
その時、池田は、現代の「最高権力者」となり、大衆からは「国父」とも呼ばれるはずでした。その夢と、現実とが、頭の中で錯綜(さくそう)していたのでしょう。池田は取材に入ったジャーナリストの見ている前で、
「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者、最高権力者である」(高瀬広居『人間革命をめざす池田大作その思想と生き方』)
などという、気違いじみた発言までしています。
また、当時の池田の思惑の中では、もし計画進展が予想以上に加速すれば、池田による支配体制は、日本のみならず海外諸国にまで及ぶかもしれない、とも思われました。池田は、その途方もない期待を、
「創価国、創価王国を、地球上に宇宙に作って、みんなを守ってあげよう」
(第二東京本部最高会議・昭和五十年六月十日)
「創価学会さえ健在であれば、全て守られる。日本、世界も……。その大前提に立って、世界観、創価学会観を築け。一閻浮提(全世界のこと)の広宣流布のため、世界にも手を打っている」(第一回本部中央会議・昭和五十年六月十六日)
と述べ、そのとき池田の支配下に置かれるであろう地を「創価王国」と呼称しました。
「創価王国」とは、池田がよく表向きで言う「仏法民主主義」とか「平和・文化・教育」などとは、およそ無縁の国家体制――すなわち
「本当は全体主義は一番理想の形態だ」(第六十一回社長会・昭和四十七年六月十五日)
という池田発言によっても窺われるとおり、ファシズム(全体主義)社会を指向しています。
この社会においては、かつて創価学会・公明党が引き起こした、言論出版弾圧事件や、替え玉投票事件、盗聴事件、リクルート事件、砂利船舶汚職事件等々を見れば明らかなように、独裁者・池田の名誉と富と権力を守るためなら、暴力や汚職・不正すらも、正義としてまかり通ってしまうでありましょう。
こうした恐るべき「創価王国」構想こそが、「広宣流布」の美名に隠れて、池田大作が目指してきた野望の正体≠ナした。
池田にとって創価学会とは、所詮、自身が天下を取るための勢力作りの基盤であり、手段でしかなく、したがって、天下取りを実現できさえすれば、
「そのときには創価学会を解散してもいい」(前出)
「いざとなったら全部城を明け渡し、全部日蓮正宗の信者になってもよい」
(第四十六回社長会・昭和四十六年四月十三日)
とも池田は考えていました(天下取りが実現できたら、会員を全て日蓮正宗の信徒にしてもよい、ということは、池田が、学会を純然たる日蓮正宗の信徒団体とは思っていなかった、という証左であります)。
また、このような感覚であれば当然といえば当然ですが、池田は、日蓮正宗富士大石寺に対しても、新興団体たる創価学会に伝統仏教≠ニいう箔をつけるために利用する、というような意識しか持っておらず、
「学会のために本山が犠牲になる。学会が全ての主体である」
(第二東京本部最高会議・昭和五十年六月十日)
「創価学会が手段になってはならない、とんでもない、創価学会が原点。日蓮正宗、法華講はおとぎ話」(第一回本部中央会議・昭和五十年六月十六日)
などと豪語していたのです。
要するに、日蓮大聖人も大石寺の大御本尊も、そして創価学会すらも、池田は自己の野望のために利用しようとしていた、ということに他なりません。
二段構え、三段構えの計画
さて、野望に取り憑かれた池田は、この計画が、学会の布教停滞等によって完全達成できなかった場合のことも、視野に入れていたのか、同じ時期に、「ミニ創価王国」構想というべき案も考えていました。
すなわち、昭和四十三年三月二十二日の第十回社長会で、池田は、九州・霧島山麓に六十八万坪の土地を買収するよう指示し、
「六十八万坪に独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな。そうすれば文部大臣は森田さん。大蔵大臣、中西さん。外務大臣、小島さん。軍需大臣、木村。運輸大臣、田中。建設大臣、杉本。宣伝大臣、横松。北条さんは警視総監、全部いるよ」
と発言。さらに、四十六年七月二十日の第五十一回社長会でも、
「九月の初めに、三泊四日で霧島に行こう。歩いたら大変だ。六十五万坪、文京区くらいあるんだから。独立国を作ろうか。創価王国を作ろうか。帷幕の内に謀りごとをめぐらそう、ゆっくりやろう」
と述べているのです。
つまり、日本の国土の中に広大な土地を買い占め、そこを「創価王国」として、日本国から独立した王制国家を作ろうというわけです。
後に池田は、裁判の際に、この発言に関して追及され、「単なるユーモア、ウイットとして言っただけです」などと言い訳していますが、かつて、
「創価学会は、国連の人口統計からいうと、世界で二十一位の国家となる」(高瀬広居『創価学会』より)
等と豪語していたとことと考え併せてみても、この独立国構想を「単なるユーモア」だったなどというのは、まったく下手な言い訳というものです。
結局、この時の霧島の土地は独立国として不向きな立地であったためか、霧島研修所(九州総合研修道場)に用途変更されてしまい、池田の「創価王国」構想は、前に検証した天下取り=日本乗っ取り′v画一本に絞られました。
さて、「創価王国」構想が成就した場合、その中心本拠地はどこに置かれるのか、ということですが、それは、どうやら東京・八王子もしくは信濃町が候補地となっているようです。まず八王子について、池田は、
「大学(創価大学)の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童会館とか、戸田記念館……世界の本部にする。公会堂、講堂、地方の人がもう何千人でも泊れる恒久的な本部、広宣流布の本山をつくっておきたい。会員から応援してもらって。これでほぼ日本の機構が確立。本山は坊さん、どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい」(第一回中央会議・昭和五十年六月十六日)
「三多摩に菩提寺を作りますよ、日本一のお寺を作る。三百年前の様式で作る。創価山立宗寺で、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるための永遠のために懇談しましょう」(第六十回社長会・昭和四十七年四月十八日)
「本当にやった人は表彰する。創価山立宗寺にも(銅板に名を刻んで)入れてあげる」(第六十一回社長会・昭和四十七年六月十五日)
との構想を語り、実際、既存の創価大学敷地と合わせ、極めて広大な用地を八王子に取得しています。
「創価山立宗寺」とは意味深な名称ですが、要は「名は体を表わす」と言われるとおり、一宗一派を旗揚げ(立宗)し、ここを創価王国の本山・本拠地にしようという構想を、そのまま名称としたものに他なりません。
一方、信濃町についても、JR「信濃町駅」を出て少し歩いてみれば判るとおり、従前の創価学会本部を中心に、学会の巨大施設が軒を連ねて建っており、ここはすでに「創価村」と呼ばれるほど、学会による土地買い占めが進んでいます。また、政治との立地関係から見ても、現状では、こちらが第一候補と見られます。(つづく)
投稿者 myokanko : 18:51