恐るべき日本乗っ取り構想の実態
池田が目指す日本の完全支配
これを「宗教団体」と呼べるのか!?
池田創価学会の本質について述べる時、「総体革命」の語を抜きには語れまい。
この「総体革命」とは、池田大作の脳内妄想を具現(ぐげん)化する構想である。
池田の総体革命妄想は、ガンジーの弟子・ナラヤンから「総体革命」の語を聴いたことに起因しているという(外道の好きな池田らしい発想だ)。
表向きには、個々の人間革命を基本として、そこから政治、教育、文化等々、各分野の変革へ繋(つな)げることが「総体革命」である等とする。
しかし、その実態は、
@精神面では、池田大作が平和・文化の指導者となり、
A政治面では、(池田私党である)公明党が政権を樹立し、
B経済面では、学会系企業(または潤沢〈じゅんたく〉な学会資本)が財界を支配し、
C行政、司法、マスコミ、教育、芸能等(かつては宗門にも)の要所に池田信奉者を潜入させ、
D新興宗教である学会の実態を隠蔽(いんぺい)するため、歴史ある日蓮正宗宗門を学会の機構の中に取り込み(これはあえなく頓挫〈とんざ〉したが)、
最終的に、これら全体を統括し、池田が日本国の最高権力者となる、それが「総体革命」であると言ってよいだろう。
当欄では、向後、この池田の妄想がいかなる形で進行しているのかについて、逐次検証していきたいと考えるが、今回はその前段として、学会の実態が、宗教として、いかにデタラメで、矛盾に満ちているかについて、述べておくことにする。
なお、当欄では、今後、創価学会がいかに社会機構を壟断(ろうだん)しつつあるか、について述べていく関係上、「学会」という呼称は、何か、世の中の本物の学術振興団体を指しているかのようで、紛(まぎ)らわしい(本物の学術振興団体が迷惑する)ため、あえて「創価」と呼称することを、お断わりしておく。
不可解で哀れな「脱落僧」なる存在
正宗誹謗・破壊が目的のエセ僧侶
第一に、池田が宗門に潜伏させ、後に離脱させた信奉者(以下、脱落僧≠ニ称する)について。
そもそも脱落僧とはどういう存在なのか…、改めて考えてみると、じつに不可解、かつ哀(あわ)れな存在なのである。
というのは、彼らは、遠からず絶滅する。一番若い脱落僧で三十代半ばであるから、遅くとも五、六十年後には、必ず、完全に絶滅し、この世から存在が消え失(う)せる。
創価は僧侶を必要とはしていないから、脱落僧が弟子をもち、その弟子が僧侶の姿をして修行することは、今後ないだろう。
万一、あるとすれば、創価学会会長の弟子として、新たに僧侶の格好をした者を作る(不祥事や失態により、組織のライン上に置けなくなった大幹部で、さりとて創価の暗部まで知られているからクビにもできない者――某副会長のような者――を、僧侶の格好をさせて飼い殺しにする)ということだが、そんなみっともない者を、もはや僧侶と呼ぶことはできない。脱落僧以下の僧侶モドキ≠ナある。
ともあれ、脱落僧は、十数年前にあらわれ、あと数十年すれば絶滅する。そんな絶滅する存在に、末法万年の広宣流布を語る資格などない。
また、彼らには、自身が存在すべき主体的な理由は全くなく、ただ創価のために利用されるだけの存在である。長い歴史の上からみた時、彼らの宗教的存在意義は皆無である。
時間的に消えゆく存在、ただ日蓮正宗を誹謗(ひぼう)し、正法を破壊するために利用されるだけの存在、会員の僧侶不在による不安を、期限付きで解消するだけの存在――。なんと哀れで、愚(おろ)かな連中であろうか。
「御本尊根本」という学会の矛盾
血脈否定は「御本尊」否定に帰結
次に、創価本体の矛盾として、「御本尊根本」と言っていること、また、日達上人から日顕上人への血脈相承を否定していること等について。
創価は破門されて以後、突如として、日達上人から日顕上人への血脈相承はなかった、と言い出した。
しかし、日顕上人が御登座された昭和五十四年から平成三年に至るまでの十数年間、会員が折伏した際に下附された御本尊は、日顕上人御書写の御本尊である。また、その間にできた創価の会館にも、日顕上人御書写の御本尊が御安置されてきた。
もし創価の言うように、日顕上人が血脈相承を受けられていないとするならば、血脈相承を受けていない人が書いた本尊はニセ本尊であるから、日顕上人御書写の御本尊はニセ本尊ということになる。
ということは、創価は、昭和五十四年から平成三年に至るまでの十数年、ニセ本尊流布に励んだということになる。
そして、その間の、ニセ本尊流布に励んだ会員の活動は、悉(ことごと)くニセの活動、魔の活動であり、ニセ本尊を根本としてきた創価は魔の団体であった、と言っているのと同じである。
「日顕上人が血脈を受けていない」と言うことは、こういう帰結となるのであって、この矛盾がわからないのは、すでに洗脳されちゃっているのである(もしかして、これを人間革命というのか!?)。
要するに、御本尊は血脈によって書写されるものであるから、血脈相承を否定しておいて、「御本尊根本」などということは成り立たないのだ。
「根本は自らの信心」という欺瞞
「仏力・法力」あっての「信力・行力」
この矛盾を糊塗(こと)するためか、創価では、
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」
(御書一三八八頁)
等の御金言を曲解して「根本は自らの信心であり、信心が強ければ、そこに御本尊が現われるからよいのだ」等という。
だが、このような主張は、「御本尊根本」ではなく、「池田大作の教えを根本」とした「池田教の狂義」でしかない。
そもそも、二十六世日寛上人は、『観心本尊抄文段』に、
「我等が信力、行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何ぞ信行を生ぜん。この故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし」
(文段集二二九頁)
と、私たちの信力・行力、信心修行は、御本尊の法力によって生ずる、と仰せである。
つまり、信じる対象があるからこそ信心が起こる、御本尊があるからこそ、それを信じることができるのであるが、創価学会員らは、「信心があってこそ御本尊が現われる。御本尊があっても、信じる者がいなければ、御本尊としての力も現われない」と、全く反対のことを言う。
なるほど、御本尊の仏力・法力は、私達の信力・行力によって発揮される、ということはできようが、その信力・行力が生ずる本(もと)は、まず正しき仏力・法力を具(そな)えた御本尊がましますことによるのである。
したがって、創価の主張は、全く「御本尊根本」ではないし、また日寛上人の御指南にも反するのである。
都合次第で七百年の血脈を否定
仏法の全否定にも繋がる大愚論
創価が、こうした自己矛盾に目もくれず、日顕上人への血脈を否定し続けるのは、会員の目を血脈否定に向けて、醜(みにく)い創価の真実の姿を隠さんがためである。
彼奴(きゃつ)らの主張によれば、六十六世日達上人までは血脈が厳然と受け継がれていたが、日顕上人はそうではない、として否定していることになるが、実際には、自らの都合で、十七世日精上人や六十二世日恭上人等々の御歴代をも否定している。全くおかしな話である。
そして彼奴らは、血脈相承を否定した上で、今度は「大聖人直結」と嘯(うそぶ)くのである。
しかし、法華経の『薬王品』には、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」
(法華経五三九頁)
と、末法に広宣流布する妙法は断絶することがない、と説かれ、『報恩抄』には、
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし」
(御書一〇三六頁)
と、大聖人の御慈悲が曠大であるが故に、妙法は万年の外、未来までも流れる、と仰せられている。
しかるに、創価が血脈相承を否定し、「大聖人直結」を主張することは、断絶することがないと説かれる仏法が、途中の何百年間、断絶していた、と言うに等しい。
これは、大聖人の御慈悲が曠大であることの否定であり、法華経『薬王品』の予証の否定ではないか。
また、法華経の『寿量品』には「現有滅不滅」「常住此説法」等と説かれ、御本仏の御化導は三世常住であることが説かれている。
しかるに、創価の血脈相承否定は、大聖人の仏法に何百年もの断絶があった、と言っているのであるから、御本仏日蓮大聖人の御化導は三世常住ではない、と言っていることとなり、それは御本仏に対する大冒涜(ぼうとく)である。
つまり、創価が血脈を否定し、「大聖人直結」等と言って、最終的に主張しようとしているのは、大聖人が御本仏であることの否定と、池田本仏ということなのであろう。
現に、昨年春、創価大学の教授が日蓮本仏論を否定する論文を執筆しており、創価はそれを非難しないのであるから、黙認した、という以外ない。
なお、日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』で、
「案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人は謗法にて候なり」
と仰せられ、明確に、大聖人直結を言う者は「謗法である」と仰せである。
このような、仏法破壊の大謗法の族(やから)が「総体革命」と称して、この日本国を牛耳ろうというのである。
当欄では、向後、このような創価の妄想について、広く世に警鐘を打ち鳴らし、もって創価の粉砕に微力を注いでまいる所存である。
(つづく)