本宗の伝統的な師弟の道
 

指導教師・小川只道御尊師法話

(於・平成4年4月28日「日達上人御報恩御講」)

 妙観講も、 いろいろな人達が入講してきて、組織が大きくなってきました。  そういう状況の中から、いろいろ新たな問題も出てくるのではないか、と思いますので、ここで、法華講という「講」について申し上げたいと思います。

六老僧を定められた理由

 これは、『法華講員の基礎知識』とか、いろいろな書物に書いてありますけれども、本宗における組織の始まりといいますのは、大聖人様が晩年に六人の高弟―いわゆる六老(六老僧)を定めました。 その所以(ゆえん)が、後の日興上人の、佐渡の法華講衆の方々に宛てた御手紙の中にもありますけれども、要するに、大聖人様の時代に「自分は大聖人の弟子だ。だから他の人達の言うことは聞きません」という人達が出てきたわけです。

 大聖人様は、それを誡められて、まず、六老を定め、そして、この六老のそれぞれの縁によって信仰を持つことができた人々を、皆、六老それぞれの下に付けられました。
 当時の人々は、元をたどれば、だいたいが六老の教化(折伏)系統になりますから、皆、その六人それぞれの下に付けられたわけです。
 そして、大聖人を根本の師匠として、さらに、その六人を小師とする。今で言えば、寺院の住職・指導教師を小師として、その上に御法主上人を大師匠と仰いでいく、という形態です。

 ここに、日蓮正宗の組織の始まりがある、といえると思います。
 したがいまして、 信徒の方々は、当然、お寺に付いて、住職を小師として、その住職の承諾を得て総本山にいろいろな願いを申請する。例えば、登山であっても、常住御本尊様を申請することであっても、皆、その住職が取り扱って、それで総本山にお願いする、ということになるわけですね。これが一つの形態であります。

住職と一体の講中に入る意義

 さらに、今度は、信徒の講というものができてきます。 一人、二人の信徒しかいない時はいいですけれども、だんだん大きくなってきますと、そこに申請によって、講(講中=信徒の組織)というものが組織されていきます。

 まず、講の中心である講頭を選び、それから副講頭を選んで、そこにまた幹事(妙観講の場合は講中幹事は支部長と兼務)という協力者を得て、そこに講中ができます。
 また、講中がどんどん発展していきますと、その講中の中に、さらにまた細かい組織ができるわけです。妙観講においては、支部があって、支区があって、班があり、そこの班には班長さんがいて、班長補佐の方がいて、講員がいる、という形になっております。
 そういう講中の中の組織も、一つひとつ、住職である私のところに申し出があって、これを承諾して、現在の形ができています。
 ですから、講中というものも、小師である住職と一体となって進んで行くという意味があるわけですね。

 そこに、日有上人が言われるところの、小師と信徒という師弟の信仰というものがあるのです。
 もちろん、私が、全ての人達のことをわかっていて、皆さん方一人ひとりに直接に指導する、ということは、できませんし、不可能なことであります。けれども、きちんと、全てを住職の許可を得て、住職と一体となり協力して進んでいる講中に入って、そこで信心をしていく―、そこに、住職を小師とする師弟の道があるわけですね。これが大事なのです。

 さらに、根本の師である御法主上人を師匠と仰ぐという点も、やはり、その小師の意に従い承認を得ていくという筋道を守ることによって、活きてくるわけです。そういうことを、第九世日有上人は『化儀抄』において種々説かれているのです。  

講中の先達にならい教わる

  さて、その小師である住職の許可を得て組織ができた、そこに講頭以下の役職の方がいて、講中における信心増進のための活動を行なっていく―。当然それは、小師である住職も認めて行なっているわけですから、その講中の中心者となっている方々の意見・指導というもの、それにならっていくということが、また師弟の道という意味にあたるわけです。
 それを直ちに「師弟」と言ってしまうと、また種々の論議がありますけれども、でも意義的には、そこに師弟という意義があるのです。だから、先輩に教わるという意味を、よく考えていくべきであります。

 ただ、ここで申し上げておきたいことは、僧俗とか師弟とか先輩・後輩といいましても、上から下へ絶対的に命令するという関係ではない、ということです。
 日興上人の『遺誡置文』にも、  
「我より智勝れたる者をば、仰いで師匠とすべき事」  (『日興遺誡置文』御書1885頁)
とありますように、弟子であり後輩であっても、本当に信心が勝れているとか、教学力が勝れているという場合もあるわけですね。そういう面については、やはり、尊敬し大切にしていかなくてはなりません。
 そのように、お互いに妙法の体として尊重し合い、師弟共に妙法の修行をしていくことが大切なのであります。
 ですけれども、基本的には、前に言ったような、住職と講中の関係や、それに基づく先輩・後輩といった関係があって、組織があるわけでして、その師弟の道を踏み外すということは、やはり良くありません。

小師と信徒のつながりを守る

 これについては、日有上人の非常に厳しいお言葉もあるのです。
 「私の檀那の事、 それも其の筋目を違わば、 即身成仏と云う義はあるべからずなり。其の小筋を直(ただ)すべし。血脈違わば大不信謗法なり、地獄なり。信心の人は、譬へば歴縁対境すると云へども終には成仏を為すなり」 (『御物語聴聞抄』法主全書1巻337頁)
と。つまり、「私の檀那の事」「小筋を直す」というのは、小師である住職と、そこに付いた講中信徒との、師弟のつながりをしっかり正しなさい、ということでありまして、その筋目を守らければ、それは、不信謗法、地獄に堕ちる元ですよ、と非常に厳しく言われているわけですね。

師弟の道を外してはいけない 

 それから、
 「当宗に於いて信の道の大切なる事は、親・師匠、能信の徳に依つて即身成仏したまひたる、其の跡を継ぎたる弟子など不信なれば、其の親・師匠を悪趣に輪廻(りんね)させんずるなり。又、親・師匠不信なれども、其の跡を継ぐ子・弟子能信なれば又成仏すと云へり。信の源、是れ大切なり。此の理を深く心腑(しんぷ)に染めずんば、徒事(いたずらごと)なるべし云々」 (『有師談諸聞書』富要集2巻142頁)
と、こういうお言葉もあります。要するに、弟子が道を誤っていくと、師匠も苦しむということがある、だけれども、師匠が不信であっても、弟子がきちんと信心していれば、これは共に成仏する、と言われているわけですね。「弟子能信なれば又成仏すと云へり」と。ですから、弟子の道≠ニいうことが大切であり、その弟子の道≠誤らないということが大切であります。

 ここには、また法灯相続といって、皆さん方も、子供にきちんと仏法を受け継いでもらわなければならない意味もあるわけです。子供が退転してしまい、だんだんと邪宗の方へ行ってしまいますと、結局そちらの方で追善回向することになりますから、亡くなった親も成仏から離れていってしまうのです。だから、法灯相続して、きちんと子供に受け持っていかせる、ということも大事になってくるわけですね。
 また、別な箇処でも、
 「縦(たと)ひ親・師匠は信心堅固にして得道すとも、弟子等の所々に退転有らば、其の師輪廻すべきなり云云。仰に云く、此の義相違無きなり。其の故は、宗旨の深義に約する時は、信心と云ふは一人しては取り難し。師弟相対して事行の信心を取る。同じながら其の師過(あやまち)なしたもう時は、弟子の方に其の信を摂する間、其の師も輪廻すべきなり」 (『雑々聞書』富要集2巻165頁)
とあります。先ほどのお言葉と同じ意味も含まれていますが、要は一人では信心できない、やはり師弟相対していかなければならない、ということですね。

 これにつきましては、前に言いましたように、皆さん方一人ひとりが直接に住職の処へ来て、ということは不可能ですから、講中の中で信仰のある方を師匠のように仰いで、また、お互いに尊敬しあって信心していくところに、師弟の道≠ニいうものが開けてきます。その中で、いろいろな申請や問題も講の幹部の方に言っていただければ、それは自然に私の方にも入ってまいりますし、そこに、小師と講中信徒という師弟の道が成っていくのであります。そうした筋道というものを踏み外さない、ということが大事なのであります。

学会に無かった伝統的在り方

 現在、学会の方から移籍し入講してきた方も、たくさんいらっしゃると思うのですが、これまで(破門以前)の創価学会というのは、どちらかというと、一人の小師・指導教師を仰ぐというよりも総本山直結のような形でありまして、末寺にお参りするのは、近くの何処の寺院へ行ってもいいというような、地域割りの形で分けて、宗門古来の伝統的な在り方(小師と講中との師弟の関係)というものが、無くなっていたわけです。いろいろな地域で、会員が個々に、近くの寺院に必要に応じて行っておりました。

 それは、宗門でも、ある程度、認めてしまっていたわけですが、ただ、今日から振り返ってみれば、そうした、宗門古来の伝統的な筋道を守らなかったことが、創価学会が間違ってきた一つの大きな原因ではなかったか、と思うのでございます。それは、私共宗門の側にも責任はありますけれども、やはり、この伝統的な師弟の道をとらなかったことが、大きな目でみて、間違いの原因だったのではないか、と感ずるわけですね。

 ですから、創価学会などから移籍した方においては、まだ、そういうことが、あまり理解できていない方もいらっしゃると思いますが、講中で教える、そうした師弟の筋道というものを踏み外さないように、しっかりと基本を踏まえて、日々の修行に励んでいただきたいと思うのでございます。

他寺院への参詣について

 なお、こうした筋道から言いますと、御講であっても、正宗の寺院だから何処でもいいだろう、などといって、他の寺院で行なわれる御講にお参りするということは、基本からいくと間違いであるわけです。
 よほど遠い地方へ引っ越しして、このままでは一人で信心が続かない、というような場合には、こちらの講中、住職を通して、先方の寺院の住職に「そちらの講中でしばらく信心修行を頼みます」ということを申し上げて、御講にお参りさせていただく場合もあります。そういう場合でも、やはり、師弟の道を踏み外さないでいかなければいけないでしょう。
 ですから、勝手に他の寺院の御講に参加するとかいうことは、筋道からいうと、いけないことなのです。やはり、それなりの事情があって、きちんと住職の許可を得て行くならともかく、先方の寺院の御住職の中からも、「よその講中(妙観講)から御講に来られたけれども、これは筋道が違うのではないか」と御注意くださる方もいらっしゃるわけです。 そういう点も気を付けなければいけないと思います。

 けれども、日々の勤行・唱題につきましては、近くのお寺にお参りしたいという気持ちも当然あるでしょうし、また、普通のお盆とか、お彼岸とかに、お参りしたいということもあるでしょう。それにつきましては、最初にひと言、こちらの講中・住職に言ってもらえば、それはよろしいと思います。

 ただ、御講とか、諸々の行事ということになりますと、やはり、それは、その寺院の所属信徒が願主となって行なわれているわけですし、当然、そこの寺院の住職や講中の指導というものもあるわけでして、それはやはり、師弟という指導系統の問題となりますから、参加するかどうかということについては、きちんと、こちらの許可を得てからしていただかなければいけません。そうしませんと、先ほど言った、師弟の道というものを踏み外していくことになろうかと思いますので、充分、気を付けていかなくてはいけないと思います。

伝統の化儀踏まえた信仰を

 要は、講中が大きくなればなるほど、そうした正宗伝統の化儀を踏まえて、私どもは信仰に励まなければいけないのでございます。その上で、後は、皆さんの立場で、伸び伸びと御活躍をしていただければよろしいと思います。
 やはり、妙観講は妙観講の、理境坊所属信徒としての信心、活動というものがあるのでございます。

 それから、もうひとつ、法華講連合会というものがあります。これは、比較的近年にできたものでありまして、いろいろな末寺の講中が、一面においては横にまとまって動くことがあるわけです。たとえば、年に三回行なわれている連合会の登山のように、 ですね。そのように、各講中が横にまとまり融和を図りながら進む、という面も取り入れる意味で、連合会というものもできております。そこに連合会としての行事もあるわけです。
 ただし、だからといって、連合会が指導系統で、講中信徒を指導する、ということではありません。新聞も出しており、それは、参考にしても結構ですが、その連合会の指導系統で講中信徒が動くということではなく、基本的には、先程から言っておりますように、総本山・御法主上人―寺院・住職―そして講中・講員という形で進むわけです。

 ですから、全国的な意味で融和を図るという面では、連合会の意義もあるわけですけれども、妙観講は妙観講として、理境坊所属の講中としての独自性というものがあるわけでして、それは何ら連合会と衝突する意味ではありません。そういう意味において、この妙観講の独自性をもって、今後も大いに発展していってよろしいのであります。
 また、これは当然、私どもも承知いたしておりますところですし、必要なことは、そのつど法主上人の許可を得て進めていることでございますので、安心して進んで行かれてよろしいと思うのでございます。
 今後、また妙観講も大きくなりましたので、いろいろな面で、連合会等においても、いっそう活躍する面も出てくるのではないかとも思います。  本日は、これで終わりたいと思います。

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