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2005年09月30日

「僧俗前進」の意義について

「僧俗前進」の意義について(平成十七年一月一日 元朝勤行の砌)


 宗旨建立七百五十三年新春、おめでとうございます。
 皆様には、この元旦勤行に大勢の方が御参詣されまして、まことに尊いことと思うのであります。
 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書五七一頁)
という有名な経文もありますが、皆様方の昨年度における信心修行の功徳があって、この元旦に当たって総本山に参詣し、本年一年の信行倍増を祈られたことと思うのであります。また、その功徳が、本年さらに未来において、様々な仏法の信心修行の上からの大きな徳となって顕われてくることを確信するものでありますが、このことはまことに尊いことと思うのであります。
 さて、本年は「僧俗前進の年」ということになっております。この「僧俗前進」ということについては、僧と俗が共に大きな目的に向かって一致して前進していく、ということが大切だと思います。
 御承知のとおり、大聖人様の御出現以降、七百八十三年が経過しましたが、下種仏法は日興上人・日目上人等、御歴代の御先師の法灯相続により、そしてこの間、僧侶が法を正しく護ることにおいて、今日まで存続してきておるのであります。これは『四恩抄』において、釈尊仏法が正像二千年の歴史を経て末法の今日まで伝わってきておる、という所以もお示しあそばされておるところであり、僧侶があって初めて、仏法が永久に続くということが存するのであります。
 しかしながら、僧侶だけがあっても、けっして仏法が正しく伝わるということはないのです。すなわち、僧侶と一体になって正法を外護していくところに、在家の皆様方の信心の姿があり、また、それによって各々が仏道成就の本懐を遂げていくことができるのであります。したがって、それは僧俗が共に心を一つにしてこそ、初めて、真の信心修行が成り立っていくのであります。
 あの創価学会は、力が付いたからといって、宗門を操作して自分らの都合のいいようにしたいと、いろいろに考え、あるときには恫喝をしたり、また、いろいろな意味での意地悪をするというような在り方が、過去においてはじつに多くありました。その挙げ句が平成二年、大石寺開創七百年の年の「一一・一六」の池田大作の大謗法の言動ともなったわけであり、その翌日には普賢岳が噴火したというような不思議な謗法の現証があったのであります。
 そのようなことからも、やはり、信徒は僧侶と共に、あくまで仏法のために尽くしていくのだ、という気持ちを根本に持つことが大切であります。自分らが偉いと考え、僧侶を見下して、それを思うがままに操っていく、というような考え方自体が大謗法なのであり、その姿が今日、創価学会のあの魔の所行として残っておるのであります。
 さて、この「前進」ということですが、あくまでこれは広宣流布への前進であります。ただ単に前へ進めと言っても、何が目標かが解らなければ、行く先が解りません。これは当然、広宣流布へ向かっての前進ということであり、そのためには、いわゆる自行化他、自らも仏法を修行するとともに、他もまた教化していく。その教化のなかでも特に、邪義を持っている創価学会のごとき者に対しては、はっきりとした折伏を行ずることこそ大切であります。その意味において、この「前進」とは、すなわち自行とともに折伏をしっかり行じていくというところに、本当の前進の姿があるのであります。
 そこで、邪義のはなはだしい創価学会に対して、まことに効果的に、いろいろな工夫をこらしつつ創価学会の邪義を根本的に打ち破り、前進しておる講中としては、全国の中でも妙観講が最も勝れておる、と私は思うのであります。ですから、そのような在り方を各講中が見ながら、とにかく邪義を折伏しつつ前進していくということに、お互いに大きく一致していくところが、「僧俗前進」の真の姿と私は思うのであります。
 そういう点からも、本年は昨年に引き続いて「破邪顕正」という意味をより強くしていく内容が、真の僧俗の和合し一致しての前進であるということを、皆様方はしっかり肚に入れていただきたい、と思うのであります。(後略)

投稿者 myokanko : 2005年09月30日 22:42