2005年09月30日
若々しい力で邪義破折を
若々しい力で邪義破折を(平成元年二月十六日)
(※まず猊下は、「妙観講は幹部からして若い人が中心だ」ということから、将来の発展に御期待くださっている旨、ありがたいお言葉をくださった。その後、『妙観』顕正会糾弾特集号に目を通され、以下のとおり仰せられた。)
大聖人様の仏法は、邪義を破折していくということが大切であるが、それには、やはり若々しいカがなくてはならない。妙観講はよくやっているようだね。
顕正会はひどいことをする連中だが、しっかりやりなさい。
投稿者 myokanko : 22:34
異体同心して妙法を唱えよ
異体同心して妙法を唱えよ(昭和六十二年二月十六日)
妙観講の皆さんが、大草講頭以下、本日の大聖人様の御誕生会に参詣されたということは、まことに深信の姿であると思います。
御承知のごとく、大聖人の仏法は、今後、日本乃至世界に広宣流布する大法でありますが、今日において、かなり広宣流布が進んできているとはいえ、まだまだ、謗法の人が非常に多く存在しておるのであります。
大草講頭をはじめとする妙観講においては、若い人が中心になって、広宣流布達成に向けて折伏を進めているということは、まことに仏祖三宝も嘉みされることであろうと思います。
どうか、これからも、異体同心ということ――僧俗和合して、異体同心するということを忘れないで、前進していってもらいたい。うちにしっかりと妙法を唱え、団結すれば、いかなる恐ろしいものもないのであります。
そして、広布に向かって、堂々と今後の折伏に精進していっていただきたいと思います。
投稿者 myokanko : 22:33
将来の妙観講の形を
将来の妙観講の形を(昭和六十一年二月十六日)
若い人達が多いせいもあろうが、皆、たいへん折伏の方で頑張っているようですね。従来、法華講は折伏がダメなんですが、ここは、めずらしい講中です。なお、いっそう、しっかり頑張ってください。
しかし、こういう若い人達だけが多く集まっているところというのは、本当に少ない。独特な感じがある。
昔の講中には、やはり、いろいろな姿があったけれども、最近では、いろいろな影響で、法華講も全体にわたって変わってきています。が、とくに、あなた方が、講中としては先端を行っている意義がある。
これは、今ただちにということではないけれども、今後、妙観講が存在して進んでいく意義、将来の宗門の中での御奉公の姿を、深い御仏意の上において、ある何らかの形に作っていくことを、ぜひ考えなくてはいけないと、思っているのです。
なかなか、それも今の時点では、宗門のいろいろな形があるので、具体的には言えませんが――。
ともかく、指導教師のもとに、純真に進んでいってもらいたいと思います。
投稿者 myokanko : 22:32
二千突破と今後の指針
二千突破と今後の指針(昭和六十年三月十四日)
(※現在の妙観講の講員が、すでに北海道から九州に至るまで、全国各地に分布しつつある状況を聞かれて)
さらに今後は、多くの幹部が大草講頭の分身となって、気持ちをひとつにして指導育成にあたることが大切である。また、そのような、講頭の心をよく知った分身を、各地に作りなさい。その点を間違えずに徹底していけば、いかに大きな講中になっていっても大丈夫です。
(※講頭が、年間の誓願二千二百名に対し、現時点での総数二千六名に止まってしまったことにつき、深く御詫び申し上げたところ)
いや、たとえ二千二百に達せずとも、二千名を越えるところまでの折伏ができたということは、まことに立派なことである。今の世の中の人達は、ほとんど皆、何らかの形でこの仏法のことを聞き、あるいは折伏を受け、それでも入信していない人達であるから、その中で、これだけの折伏をしてくるというのは、じつに大変なことであったと思います。
実際、古い形をとっている他の法華講では、折伏の目標を立てても、その結果が半数にも充たなかったり、ゼロというところもたくさんある。その中で、しかも一千名を越えた後に、それを倍加させるということ自体、じつに至難であるのに、それを、わずか一年間でここまできたのだから、ほとんど完遂したのも同じである。よく頑張りました。
(※昭和六十年度の妙観講の指針を示されて)
講中の実情に即した折伏誓願を立て、その目標を無理なく確実に達成していくこと。また、入信した人達の育成、法統相続をしっかり行なっていくこと。折伏については、身の廻りの縁ある人々を確実に折伏していくことを忘れないように。
投稿者 myokanko : 22:31
一千名を超えて進め
一千名を超えて進め(昭和五十七年十二月五日)
本日は、妙観講が一千名を達成されての総会だそうで、まことにおめでたいことと思うのでございます。
今後さらに励んで、一千名を超えて前進していただきたいと思います。
今日、世の中がたいへん乱れておりますが、その原因は、誤った思想が弘まり、正法が乱れるところにあるのでございます。今も宗門のことをいろいろ言っている輩がありますが、ここに、正しい信仰をもち、折伏をして、広宣流布を目指していかねばならない所以があります。
創価学会もあのように発展しましたが、やはり、法華講の各講中も伸びていかねばなりません。
法華講がなかなか伸びていかない中で、この妙観講は、今日、非常に大きく発展をしてきておる。それは、大草講頭を中心とする皆様の強い信心によっているものでありまして、今後も、さら信行学をしっかりと行なっていくことを根本に、頑張っていってください。
投稿者 myokanko : 22:29
あらゆる謗法者を折伏せよ
あらゆる謗法者を折伏せよ(昭和五十六年八月二十三日)
総会、おめでとうございます。
この講中には、若い人が多いけれども、年輩の方もいるようですね。それに、なかなか法門のことも勉強しているようで、結構なことです。
やはり、大聖人様の仏法で一番大切なことは、一点の濁りもない純粋な信心・師弟相対する信心である。
現在、正信会と称する僧侶達や、それに引きずられる哀れな檀徒の人達がいますが、この者達は”信”というところを外れて、さも信心があるように錯覚しておる。それは、
「謗法と申すは違背の義なり」(御書二二一頁)
とあるように、根本のところに背反する気持ちがあるのです。そして、そこから、自分の立場や言い分を荘厳するために都合のいい御書、あるいは御先師の書き物.宗門関係の資料を切って引いてくるから、次第に訳のわからない法門ができあがってくる。
しかし、いくら巧みに法門をつくりあげても、正しい筋道を弁えている者がみれば、その根本がまやかしであるということをハッキリ見抜くことができるのです。それを見抜くのが信心です。
そこに本宗の法門の根本、”信”の大切さがあるのであって、その信の一字によって誰でも成仏できるのですから、やさしいといえば、これ程やさしい修行はない。
しかしながら、根本に背反という心、背く心があるならば、いかに法門を聴聞しても、また大聖人様のお言葉を引いて理屈をつくりあげても、結局は正しい成仏の道から外れて地獄に堕ちてしまう。
ここに、信ずるか、背反するかという、立て分けの大切さがあるのです。
あなた方の指導教師は、しっかりと正しい筋道に立っての勉学に励んでいるので、やはり、この指導教師の指南のもとに誤りのない信仰に励んでください。
また、邪義を立てる者は、それが他宗の者・世間の謗法の者であっても、あるいは本宗の僧侶や信徒であっても、その謗法は破折していかねばなりません。そうした、あらゆる謗法の人達を打ち破り、しっかりと折伏していってください。
投稿者 myokanko : 22:27
重大な御奉公なすべき因縁
重大な御奉公なすべき因縁
(昭和五十六年八月十四日 妙観講第四回総会に寄せて)
この妙観講は昨年に結成されたわけですが、やはり異体同心ということを大事にして、どこまでも大聖人様を根本とした、正しい信心修行を自ら行なっていく、そして、また他の人に御法を正しい姿で伝えていく――このことが、講中を結成し発展させていくうえに大切であると思います。
この大聖人の御法は、皆さんも御承知のとおり、絶対に正しい、すべてを救う大法である。「御儀口伝」に
「秘とはきびしきなり三千羅列なり」(御書一七二六頁)
という御文があります。非常に難しい御文ですが、宇宙法界のあらゆるところまで、すべて仏智・仏見によって照らされているのであって、我々凡夫が「わからないだろう」と思っていても、仏様の御境涯からは全部がわかっていらっしゃる。そこにおいては厳然たるものがあって、いささかも誤魔化しや詐りは通じないのであります。
ですから、それだけにまた正しく信心する者にとっては、正しい結果というものが厳然と現われるのでありまして、それは、あなた方もいろいろと体験していることでしょう。本当にこの御法を正しく受持し、素直に、真面目に信心していくところには、必ず御本尊様が、それだけの功徳を御示しくださるわけです。
その正しい信心を一人ひとりがして、功徳をいただいていく――そこに、本当に清らかな、団結をもった集団が次第に発展していく、それが理想の講中を築いていく道であります。
また、これとは逆に、一人ひとりの信心の中に我意・我見があるならば、やはり、それなりの悪い結果が現われてくる。
過去において、宗門にはいろいろな講中がありました。その中には、十人か十五人ほどの講員をかかえて、それで天下を取ったような気持ちでそっくり返り、時には威張って僧侶をいじめるような人格の講頭や幹部がいた。そして、講員を自分の所有物であるかのような考えをもっていた。しかし、それは間違いである。
そういう自分本位な、利用信心のような行き方は誤りであり、その人には、それなりの悪い結果が出てくるのであります。
こういう点を戒めとして、どこまでも正しい信心を貫いてもらいたい。
この妙観講は、若々しい姿で、これから伸びていく素質が非常にある講中であると私も感じておりますので、しっかりやってください。
また、いろいろな因縁によって、講頭・副講頭となり、幹部となる。その立場においては、人よりも進んだ信心をもって、僧侶とはまた違った在家の役職の立場で、皆のための指導性をもっていく。これも当然の姿であり、けっこうなことであります。
それは、あくまでも法を説く、広宣流布のためである、という精神を根本としていかねばならない。そこを失ったならば、講中の動きが止まってしまう。
たとえば五百世帯、六百世帯まで折伏し、御奉公していくことは立派なことです。
しかし、さらに五年後、八年後、十年後と、永遠に前進していくことが大事である。広宣流布に向かって、互いの信心を磨き、信行学を増進していく――そこに立派な団結をもった講中がさらに拡張・充足していくのであって、それがもっとも大切なことです。
もし三百世帯なら三百世帯、五百世帯なら五百世帯というふうに、たとえ大きくなっても、それで止まってしまうのであれば、結局はそれだけの境界でしかなかった、五百なら五百、三百なら三百、それだけの講中でしかなかった、信心そのものが止まってしまった、という以外にない。
ですから、常に自らの信心を磨き永遠に前進していく、その精神が一人残らずの講員に伝わっていくところまでいけば、本当に立派な講中であるといえるのであります。
現在の法華講には古い人が多く、新しい人が少ない。ところが大草講頭のところには、非常に若い人が多く集まってきており、まことに独特な、めずらしい講中である。これは、将来、宗門に重大な、重要な意味での御奉公をなすべき因縁があるのではないかと思うのであります。
どうか、あくまでも大聖人様に御奉公しよう、本当に御奉公していこう、という一念をもって、僧俗が和合して精進していってもらいたい。そこに必ず正法流布の願いが叶うのであり、また、それ以外に講中をやっていく根本はないのです。
しっかりと進んでいってほしいと思います。
投稿者 myokanko : 22:16