写真@ 広開門より奉安堂を臨む。広々として視界を遮る何物もない

 去る十月十二日に落慶した戒壇御本尊奉安堂は、その後、十三日から二十二日まで、十三会にわたる落慶記念大法要が奉修され、多くの法華講員が、奉安堂の荘厳さと、参詣信徒への行き届いた配慮の数々を、身をもって体験し感激を深くした。
 ところが、これに怨嫉する池田創価学会は、機関紙『創価新報』怪文書


『フェイク』等を用い、正本堂と対比する形で、奉安堂への、およそ見当はずれな誹謗中傷を繰り返している。
 その誹謗中傷を砕くには「論より証拠」。奉安堂の要所要所を写真で紹介し、視覚で納得させるのが最善である。
 その趣旨で、今回は奉安堂に関する写真特集をお届けする。
TOP↑ NEXT↓




写真A かつて参詣者の前に立ちはだかっていた石段
 奉安堂に向かって、正面の門(広開門)を入る。
 真っ先に感ずるのは、広々とした前庭(照心庭)から奉安堂の本体まで、視界を遮(さえぎ)る何物もなく見渡せることであろう(写真@)


写真B 奉安堂側面の緩やかなスロープ
そう、かつてはここに、登るだけで息切れするような石段が立ちはだかっていたが(写真A)、このたび完成した奉安堂には、階段や段差が極めて少ないのである。
  それに加えて、わずかなスロープも緩(ゆる)やかだから、車椅子の人や高齢者にとっても、何の不安もない(写真B)。そこに活(い)きているのは、まさに、人をいたわる思いやりの思想だ。
TOP↑ NEXT↓





写真C かつてのゴツゴツした石畳
 実際に奉安堂に向かって歩いてみると、また大きな発見がある。  すなわち、かつては、「ハイヒールは危険です!」などという注意が叫ばれるほど、隙間(すきま)だらけのゴツゴツした花崗岩の石畳が張られていたが(写真C)




写真D 奉安堂の滑らかな石畳
 この奉安堂の敷地内は、そんな危険が皆無の、滑(なめ)らかで優しい路面に仕上げられているのだ(写真D)。  さらに、この照心庭には、噴水などの余分な装飾(そうしょく)もなければ、晴天用・雨天用の二層に分かれた入口などもなく、全てが見通せる設計となっている。これなら、初めての登山者が仲間とはぐれて迷子になる心配はないし、人の流れが掴(つか)みやすいから登山者の誘導も容易になった。
TOP↑ NEXT↓







真E 広開門より奉安堂へと続く回廊
 ちなみに雨天時には、広開門から左右の回廊(写真E)に入り、雨をしのぎながら奉安堂へ向かえばよい。すでにこの回廊は、実際の雨天に効果を発揮し、登山者から喜ばれているのである。
 奉安堂正面に立つと、伝統的な日本の仏教建築に見られる、巨大な二層の屋根がそびえている(写真F)。  第九世日有上人の  「法華宗の御堂なんどをば日本様(よう)に作るべし」(聖典九九四頁) との御教示を、まさしく具現(ぐげん)した建築といえよう。
 しかるに、ヨーロッパかぶれの池田教の謗徒(ぼうと)らには、これが全く理解できないらしく、街(まち)の銭湯や霊柩車(れいきゅうしゃ)が重厚感を出そうとして、こうした伝統建築の屋根の形を



写真F 唐破風の上、大鬼の輪宝紋が輝く屋根
 模(も)しているのを挙(あ)げ、 「奉安堂は、銭湯か霊柩車のようだ」 などと、無茶苦茶な悪態(あくたい)をついている。  そういう論法を使えば、さしずめ、日本の伝統建築は銭湯と霊柩車を真似(まね)たもの、ということになろう。まったく教養のない連中には困ったもので、謗徒の悪口誹謗(あっくひぼう)もここに極まれり、である。
TOP↑ NEXT↓




写真G 円信閣(右手が照心庭から入る扉、左手がホールの入り口)
 奉安堂本体への入場も、じつにスムーズに、短時間で行なえる。
 正面入口を入って、円信閣を通れば(写真G)、そこはもう信徒席のあるホールなのだ。
 入場ゲートによって別々のフロアに誘導されたり、延々と続く急なスロープを登る必要もない。
  したがって、混乱もなければ、人の流れが詰まって時間がかかるということもない、お年寄りや体力のない人にも何ら負担がかからないのである。

TOP↑ NEXT↓







写真H かつての、こうした滑りやすいスロープや迷路のような通路は、奉安堂には全くない!
 また退場に際しても、転倒の危険のつきまとう滑(すべ)りやすい下りのスロープ(写真H)や、迷路のような通路を歩かされることもなく、



写真I 退場時、ホールの側面の扉を開ければ、すぐ外光が差し込む
ホールから左右の扉を出れば(写真I)、すぐに奉安堂の軒下である(写真J)。迷う心配もなければ、転倒の危険を感じさせる所も一箇所もない。  こうしてみれば奉安堂は、やはり、参詣信徒へのいたわりと優しさを主眼とした構造であることが、一目瞭然であるといえよう。
 いたわりといえば、池田教の謗徒共は、
 「奉安堂の中にはトイレがない。信徒蔑視(べっし)の象徴(しょうちょう)的建物だ」 などと喚(わめ)いているようだ。
 だが、この発想自体が狂っている。
 奉安堂は、御本仏日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊を厳護し奉る堂宇(どうう)である。その堂宇の中に、不浄(ふじょう)なトイレを付ける、という発想は、仏様を尊崇する信仰者のそれではない。まさに無信心の典型のような発想である。
TOP↑ NEXT↓




写真J 扉から出れば、そこは大きく張り出した奉安堂の軒下



写真K 奉安堂の東西に設けられたトイレ

写真L トイレにはスロープも車椅子用も備わる
 ちなみに奉安堂は、堂宇本体の中にはトイレはないが、建物の外、東西の誰でもわかる所に、螺旋(らせん)階段など使わず、車椅子でも行けるスロープの付いた、大きなトイレが備えられている(写真KL)ことを、付言しておこう。
TOP↑ NEXT↓




写真M ほどよい堅さのクッションをもつ信徒席
 さて、奉安堂ホールの中に入ると、整然と並ぶ五千余の信徒席が目に映(うつ)る。  信徒席の椅子(いす)は、安っぽい集成材ではなく白樺(しらかば)の木を使い、座面と背当てにはブルーの布地を張ったクッションが(写真M)



写真N 背もたれにも適度な角度がついた
 背もたれを垂直にせず適度な傾斜をつけ、さらに座面を布張りにしてクッション性を持たせた結果、滑って着座姿勢が崩れることもなく、申し分のない座り心地が実現した(写真N)。これで、安定した姿勢で御開扉に臨めるようになったのである。  また、この椅子は、もともと前席との間隔が充分に広いうえ、座面が跳(は)ね上げ式になっているため、入退場時の人の流れはいっそうスムーズになる。じつに、工夫が行き届いているのである。
TOP↑ NEXT↓








写真O シンプルでフラットな形状のホール
 奉安堂ホール内は、まったくフラットな大空間となっている(写真O)
 これについても、池田教の謗徒らは、
 「かまぼこ型の大空間に舞台を付けただけで、体育館のように殺風景な、がらんどうだ」 などと、罵(ののし)ることに余念がない。  しかし、これまた、信仰観の狂いを自らさらけ出したようなものだ。
 そもそも、この堂宇に入る唯一無二の目的は、大御本尊を内拝し奉ることである(写真P)。全ては、その目的を根本に考えなければならない。
 けっして、奇をてらった前衛(ぜんえい)的なデザインの建物や、華美な内装などを鑑賞するため、ではないのである。
 かく考えれば、奉安堂内が驚くほどシンプルな形状である理由がよく解ろう。
 池田教徒らは、
 「正本堂は、須弥壇(しゅみだん)を扇の要にして左右に展開し、六千人もの人達が均一に大御本尊を拝せるようになっていた。しかも、床には、前席の人の頭部が視線の妨げにならないように、傾斜がつけられていた」 などとして、奉安堂の悪口を言っているが、正本堂の時は、信徒席を扇形に広げすぎたため、結果的に両端の席からは大御本尊を拝することができなかったし、一・四番のゲートから入った左右のフロアは、信徒席の位置がかなり高いため、大導師席を上方から見下す格好となり、まともな感覚の信徒は違和感をぬぐえなかった。
 

写真P 大御本尊を内拝する厳粛な空間に、奇をてらった内装は不要
TOP↑ NEXT↓




写真Q 信徒席最前列の両端からも、大御本尊をきちんと拝せる
 だが、奉安堂は、堂内のどの席からも大御本尊を拝することができるよう配慮され(写真Q)、もちろん大導師席を見下すような席も一つとしてない。六千名の僧俗が、御法主上人の大導師に随順し、大御本尊を贍仰(せんごう)して唱題し奉る形となっているのである。
 この上、池田教徒のように「左右の席の信徒は体を斜めにして正面を向かねばならず云々」「前の人の頭が邪魔で御本尊が見えにくい云々」などと言う者は、信心なき罰当たり者である。体を少し斜めにしたり、前の人の頭をよけたり程度のことで、批判をゴボゴボ言うような者には、もとより大御本尊の内拝を願う求道心(ぐどうしん)などない、といえよう。
 また、奉安堂の天井や壁も、特異な形状や起伏(きふく)をつけたり、大理石を多用したりせず、むしろ、シンプルな形状で極力、場内の音の反響や残響をなくすことを目指したものである。
 音を吸収する壁材(写真R)の効果とも相俟(あいま)って、場内どの位置に座っても、以前とは大きく違って、マイク導師の声がハッキリと聞き取れ、読経・唱題の声が合わないことなど皆無(かいむ)なのである。
  このように、礼拝施設としての機能に優れた奉安堂を蔑視し、「奉安堂は体育館のように殺風景だ」



写真R 音響効果が十二分に配慮された壁
 「正本堂の方が内装が良かった」などと喚く池田教徒は、本門戒壇の大御本尊を内拝することより、正本堂の建物の方が大事だった、と自ら白状したようなものだ。
 心ある学会員よ、この特集をつぶさに見て、いま一度、信心の原点たる本門戒壇の大御本尊を思い起こし、渇仰心(かつごうしん)を取り戻すべきである。
TOP↑



Copyright(C)2002